『式師戦記 真夜伝』番外編

 
 −ソメイヨシノ−  序幕
 

 満開の──――桜。この桜はソメイヨシノ。
 この世界に、咲いても実を結ばない、実を付けても芽吹くことのない花があることを知った私は、まだ幼かった。


*

 彼女が彼に出会ったのも、こんな季節だった。何気ない日常と見慣れた町並みに彩りを添える薄紅色の花が、競って咲き乱れている。
 かつての先人達をも見惚れさせてきた、桜。その木が二人を引き寄せたのかもしれない。
「春と言えば、桜よねぇ」
「いいお日和で良かったわね、八重さん」
 姉と母親ははしゃいでいた。
「そうね……」
 姉と母と、咲き揃ったと聞いて花見見物に出かけて来た八重やえは、二人の言葉に上の空で答える。
 やれやれと二人は目を見交わして肩を竦ませ先に行ってしまった。
 八重は何かに夢中になると、周りのことが入ってこない。よくよく見ると、根元の辺りにも小さい花が何輪も咲いていたので、今度はしゃがみこんで見始める。特に桜は八重にとって特別だった。
 八重という名前は、彼女が桃色のぼんぼりのような幾重にも花びらが重なる八重桜が咲いていた時に生まれたことから名付けられた。
 八重桜が咲くにはまだ早いが、だからこそいつも以上に八重は無心でそれを見つめていた。
「大丈夫、ですか?」
 最初、それが夢中で見入っている八重の耳には届いていなかった。
 二度三度尋ねても返答がないので、さらに心配した青年は肩を叩いてもう一度彼女に尋ねる。
「どこかお加減でも……?」
 そこで八重はやっと声に気付き、はっとして顔を上げた。今度はゆっくりと青年は彼女に尋ねる。
「大丈夫ですか?」
「はい……?」
 血色の良い顔をあまりにキョトンとさせ振り返ったので、青年は自分の誤解に気がついた。
「ああ……すいません。木の下でしゃがみ込んでおられたので、どこかお加減でもお悪いのかと思ったのですが」
「いえ、ありがとうございます。……桜の花を見ていたもので」
 彼女の視線の先を覗き込んで、ようやく青年にも幹の根元から小さく目を出した枝の桜の花が見えた。二輪ほどのかよわい枝。
「良かった。何か病気だったら大変だと」
「病弱そうに見えます?」
「……少し」
 八重は苦そうに笑った。
「いつもそう……別段病気になったことなんてないし、いたって健康なのに必ず言われるんです。ご心配をお掛けしてすみませんでした」
「いえ……」
 返事を聞いたのか聞かなかったのか、八重はゆるりと歩いて行ってしまった。
 
 
 花見見物に行った日以来、八重は少し呆けて過ごした。
 お互いにこれきりだろうとも思わぬくらいすぐに意識から遠のいたが、八重の心は何かポッと灯が点っていた。八重自身にも気付かない、けれどくっきりと点った小さな灯が、彼女の心を釘付けにしている。
 そんな時に目に止まったのは新聞のある記事だった。
 有名書道家の父の型を破る、新進気鋭の若き書道家の特集記事で、その写真が問題だった。
逸色禾政いっしきのぎまさ」と名前の書かれたその写真は、間違いなく先日の青年のものである。
「この人……」
「どうかしたの?」
 ちょうど居合わせた母も新聞を覗き込む。
「あらあ、逸色のご子息じゃないの」
 その言葉に八重は母の顔を見る。
「お父様が逸色桂政さんと言ってね、あなたの父さんとは中学の同級なのよ。父親譲りで息子さんもいい方よねえ。そうね、いいわねぇ……」
 母親は何事かを呟いていた。
 
 ほどなくして、八重の母親は逸色流の書道展の招待状を持ってきた。
 父親が同級だったということで、タイミングよく招待状が届いたらしい。母は有無を言う隙を与えないように支度をせかして娘を送り出した。
「なんで私なのかしら……」
 八重は町の講堂の前まで来ていた。建物と招待状を見比べながら一つ溜め息を落とす。
 会いたいとは思っていなかったし、会えるとも思えなかった。あの時だけの縁だろうと思っていたが、まさかこんなに近い縁だったとは正直八重には驚きだった。
「どうぞ?」
 ただ、会えたなら嬉しかった。
 ゆっくり振り返ると、まるで既視感のようにあの時と同じ顔がある。違ったのはその後の表情の変化だった。
「この前の……」
 彼の驚いた顔が、八重には眩しかった。
 入るとちょうど受付にさきほどの青年に面影が似て年を重ねた男性が立っていた。
「逸色桂政先生ですね」
「……」
 息子とともに入って来た若い娘に男は俄かに怪訝な眼を向ける。八重は招待状を差し出した。
「お初にお目にかかります。深森左門みもりさもんの娘です。父とは中学の同級だったそうで」
「左門の?」
「はい。深森八重と申します。父も母も今日は先約がありまして、せっかくでしたので娘の私が僣越ながらご挨拶に上がらせて頂きました」
 八重はぺこりと頭を下げた。
「いや。旧友のお嬢さんにお目にかかることが出来て嬉しい限りです。ゆっくり見ていって下さい。ああ──」
 思い出したように息子を手招く。
「紹介が遅れましたが、息子の逸色禾政です」
「先日は失礼なことを致しまして」
「知り合いだったのか?」
「少し」
 書道の心得のない八重には作品の価値は分からなかったが、禾政の書は真っ正直な作品ばかりだった。言葉を言葉通りの風合いで仕上げている。一通り見終わるって受付に戻ると、青年の父親はいなくなっていた。
「先生でしたら先程ちょっと出て来ると──」
 受付を任されていた女性は親切に教えてくれた。
「じゃあ、僕らも行きましょうか」
 青年はそう言って建物を出た。
「この近くに甘味処のおいしい店があるんです。こないだのお詫びに」
 苦笑した青年は後ろを振り返る。
「では、お言葉に甘えて……」
 なぜすんなりとそう答えたのか、八重は内心不思議だった。
 老舗であろう連れて行かれた先の甘味処は、あんみつがおいしいので町では評判だということだったが女学校に行く以外、外を出歩くことのない彼女は知らなかった。
「おいしい……」
「お口に合ったのなら良かった」
 黙々と食べてしまっていた八重は、ふとあることに気付く。 「もしかして、こないだ私が言ったことをお気になされているのですか?」
「いえ、そんなことは」
「お気になさっておられたのなら、すみません。いつもいつもああいう印象を持たれるようなので、一人で皮肉っぽく言ってみたかっただけなんです」
 青年はほほ笑んだ。
「よっぽど嫌なんですね」
「勝手な印象で勘違いされることが……そういう弱い女に見えるらしく、そこに付け込もうと寄ってくる人が時々いて。あ、えっとでも、逸色さんがそうだとは思いませんでしたからっ」
「“禾政”と呼んで下さい」
「禾……政さん?」
「ええ」
 頬に熱を感じた。びっくりして立ち上がりそうになったが、辛うじてそれは押しとどまった。
「どうしました?」
「……いえ」
「そういえば父と、八重さんのお父様が中学で同級だったなんて。驚きました」
「ええ……新聞拝見致しました。そばにいた母親からそんな縁だと聞いて、私もとても驚いて」
「不思議な縁ですね」
 ちょうど普通の桜が散り終え八重桜が咲く頃合で、二人は散歩がてら足をのばした。
「この先の土手から見るのがいいんですよ」
 そう言って誘われた。一斉に咲き並んでいたはずの桜並木は緑の屏風となり、八重桜が桃色の雪洞のようでアクセントになっている。
「……」
「絵になるでしょう?」
 描き留められた美しさより鮮やかで、生きた一瞬。
「禾政さん……私の“八重”と言う名前は、あの八重桜から取られたんです。八重桜が綺麗に咲いたに日に生まれたからと」
「もしかして、お誕生日が──」
「はい。あさってで17になります。今日は素敵な贈り物を頂きましたわ」
 朱の上った頬が緩む。禾政もそんな彼女にほほ笑みかけた。
「それは、光栄です」
 今、二人の心に、華が咲いた。
 
 送って行くという言葉に甘えて、連れだって川に背を向けた時、八重は奇妙な光景を見た。
 木々の影に隠れた小さな空地の真ん中が、若竹で四方を囲まれていたのだ。
 違和感を覚えたが、禾政が歩き出したので八重はその背中を追う。
 お互いに言葉は交わさなかったが、どう歩いて来たのか忘れるほど八重の頭は霞んでいた。そんな彼女の意識は突如として引き戻される。
史織しおりさん!」
 大声で名を呼んで、禾政がにこやかに手を振ったのは、人通りでは目を魅くだろう紅色の着物と、それに合わせたリボンがこれ以上ないほど似合う女性だった。
「あら、禾政さん。ごきげんよう」
「こんな所でどうしたんです?」
「兄の代わりに逸色にお邪魔しようと思ったところだったの。ちょうど良かったわ」
 取り残されていた八重は、胸の辺りにしこりを覚えた。それがなんなのかは、八重自信にはまだ分からなかった。そんな彼女に史織という女性は気がついてこちらに顔を向けた。
「そちらのお嬢さんは?」
「ああ……すみません、八重さん。この人はうちの遠縁にあたる麓峰の娘さんで──」
「はじめまして、史織と言います。よろしく」
 笑顔で差し出された手に思わず八重もつられて手を差し出す。
「あ、深森八重と申します」
「実は父と八重さんのお父様が中学の同級で、逸色流の書道展を観に来てくれたんだ」
 史織は掌をパンと合わせた。
「まあ、おじ様の──私も次の書道展には出させて頂くことになっているの。ぜひ観に来て下さいな」
 明るくて、どことなく上品で、裏のない笑顔が、八重の胸には苦しかった。
「あ……あの、ご用事があるのでしょう?私は一人で大丈夫ですから」
「けど……」
「それに、まだ私も寄るところがあるので」
 禾政は済まなそうに八重を見つめた。
「それじゃあ……」
「ごめんなさいね、……深森さん」
 二人の姿が見えなくなるまで見送っても、八重はしばらくそこに立っていた。


 
 

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