『式・宵の章』

 
 第二話 花咲くは始まり
 


 桜の花が風によって散らされる。さらさらと流される枝から、那由他と花びらが降る。
 そんな降りしきる薄紅の下で、少年は遠くに赤ん坊の泣き声を聞いた。
 視界にある奥座敷は障子も開け放たれ、主も誰もいない。
 式筆頭一式家に待望の“力”を持つ子どもが生まれた。
 少年はその日、祝いの挨拶のために父親に付いて一式に来ていた。
 その時桜の舞っていた庭はいま、すでに青々とした盛りも過ぎようとしていた。
「ほぉら真夜。パパですよー」
「パパは、やめてくれと何度言えばいいんだ」
 第二子として、娘にして後を継ぐべく子を授かった父親は、それでも愛妻の言葉にむくれていた。
「あら、私はパパ・ママがいいわっ。あなたったら臣彦の時も反対したじゃないですか」
 庭の緯仰が居た場所からは奥まった部屋で、意外に照れている父親とそれにほほ笑む母親の図。
「だいたいあなたそれでも今時の、しかも二児の父親なんですか。照れなくともいいのに。今度は娘なんですから、どこにかわいく育てて文句があるんです」
「そういうことじゃあ……」
 障子戸が短く音を立てた。
「まあっ、緯仰くん」
「おお……。入って来ていいぞ」
 遠慮気味に側に寄ってきた緯仰によく見えるよう、果月は向き直ってやった。
「可愛いでしょ。抱いてみる?」
 ──それは古い記憶。懐かしい記憶。
 うたた寝から緯仰の意識は浮上する。
「いま思えば、あれは見なくて良いということだったのか」
 小さな溜め息を隠すように伏せた額に手を当てた。
「お前の受けた苦しみからすれば、僕のなんて……」
 はっと我に返って緯仰は苦笑する。
 いまの言葉はどちらの自分が言ったのだろう。自分の内の奥底のあちら側に、確かにもう一人の己がいた。



 頭が痛い。割れるように痛い。鼓動がうるさく耳につく。
 まだあどけない少年は、明かりを落とした布団の中で溜め息をついていた。
「ねむれない……」
 隣りではもう一人の自分が、穏やかに寝息を立てている。
「空唆《あくさ》はなんでねむれるんだ……ぼくたち一緒なのに……」
 目を閉じたくても閉じたくない。またどろどろしたものを見てしまう。それが嫌だったが、小さい体は眠気にも勝てない。
「きもち、わるい……」
 黒い炎が自分に手を伸ばして来る。いや、本当は大切な誰かに手を伸ばしていた。
 誰かは分からない。顔も、姿もどこにも見当たらないのに、大切な人だった。
 手が届いちゃだめなのは分かってて、自分は見てるだけ。
 だめ、行かないでと叫んだら、すごく幸せな気持ちになった。
 でもそのせいで大切な人は黒い炎にもっていかれる。泣いてるのにもっていかれてしまう。
「や、だぁ……やだよぉ!」
 またその朝は緯仰は泣いて起きた。
「まっ黒の火がぼくの方にくるんだ。そしたら雨がふってきてすごく痛い」
 雨なんて嫌いだと最初は逃げていた。
 だんだんと梅雨時が過ぎても部屋からも出て来なくなった息子が、母は心配でならなかった。
 緯仰が式の血により、影を退かせる力に目覚めたのはつい今年に入ってすぐのことだった。式の封解の儀式をすることなくそれは現れた。
 生まれた時より力を持つことは分かっていた。そして稀な強さを持つことも。
 緯仰の父は今は外に出たがもともとは三式の次男で、式師としても力を持っていた。ゆえに息子の覚醒を素直に喜んでいた。
 緯仰の母親もこれでも奉家式の血をひく端くれだった。主立って守師となることはなかったが、務めに関しては理解がある。それだけに漠然とした不安を持っていた。
 だから緯仰のこの様子には、強い力をもつゆえの何がしかがあるのではと夫に訴えた。
 きちんとした修行が必要なのかもしれないと、丸崎寛弥《ひろや》は一式の判鳴に相談を持ち掛けた。
 実家の三式ではなく一式に話を通したのは、緯仰の従妹にあたる二つ下の姪も力を持っているため修行を始める頃合だろうということもあったが、一式なら式家を束ねる家柄、分かることあるだろうと。それよりもに判鳴は寛弥にとって頼み安い相手でもあった。
「そうだな。直弥には後継の娘がいる……。果月も落ち着いて来たし、俺もいまから教えるということに慣れておいてもいいのかもしれないな。その話、引き受けよう」
「そうかっ、頼む」
 緯仰は幼さゆえに力の強さを加減出来る精神力がまだ育っていなかった。力そのものよりも、内に在る力の存在に怖がってしまっているように、しばらく様子を見ていて判鳴は思った。
「緯仰。すまないが今から客が来るんだ」
 風の声を聞いていなさい。そう言って庭を歩かせていたはずの緯仰は、声をたよりにその部屋まで辿りついた。
「そうだ、臣彦は遊びに行ってしまってるから、緯仰くん、真夜の相手をしててもらえるかしら。私も一緒に行かなければならないのよ」
 判鳴の妻・果月は困ったように笑う。
「そうだな。休憩がてら頼むか」
「はい」
 重みがあるのに、抱えた感触は柔らかかった。
「あっ、でも……どうしたらいいか分かんない」
「あとで佐伯を寄越す。心配ない」
「真夜は人懐っこいから」
 そう言って判鳴夫妻は二人を残して部屋を出ていった。
「ぷぁ、ぱぁあっ」
 腕の中で一人遊びを始めた幼な子を、緯仰は息を殺して観察していた。
 弟はいるが同じ年で、従妹達も二つほどしか違わないので、緯仰が記憶にある頃からこんなに小さな子どもを、抱くのも相手をするのも初めてだった。
 時折真夜は足をバタつかせ、瞳を大きくしてまっすぐにじっと緯仰を見上げて来る。
 不思議と頬が笑む。緯仰は、久しぶりに体の強張りが抜けたような気がした。
 笑顔になると、手の中の幼子も興味が引かれて、手まで伸ばして来る。
「かわいい……かわいいね」
 笑って話しかければ声を上げて喜んだ。
 ひとしきり笑うと、重くなった瞼を閉じ閉じあくびをして、幼い真夜は眠ってしまった。
 まだ幸せしか知らない顔で寝ている真夜を見ていて、緯仰は気付いた。
 この小さなものは、一式の跡継ぎになる子どもなのだ。この小さな子にもやがて重い役目がのしかかる。
「真夜様はお泣きになりませんですか」
「さえきさん。だいじょうぶ、ねむっちゃったんだ……」
 そっと入って来た佐伯の声に、暗く沈みかけようとしたところを緯仰は救われた。
「では私がベッドへお連れしましょう」
 緯仰はまだ伸び切らない手からおずおずと真夜を渡した。
 毎日ではないけれど、緯仰は一式に通った。
 一式には緯仰と同じ年頃の男児がいた。真夜の実兄だが、あまり顔を合わせなかった。というのも緯仰が訪れれば、必ずと言ってよいほど出かけている。たまに居合わせれば堅い顔ですぐどこかに行ってしまう。
 しかし緯仰はある時見た。
「ほらっ」
 背伸びしてベビーベッドに寝転がる真夜に、臣彦は手を差し出していた。柔らかい顔つきをして、真夜を見ていた。



 暮は足下から張り出した木の根に腰掛けていた。
 辺りはのびのびと草木が鬱蒼とする森が広がっている。
 月は枝葉がせわしなく邪魔をして隠している。それでも夜光は十分視界を満たしていた。
「山に近くて大丈夫かしら?」
「調べるには打って付けなんだ。そろそろ釣られてくるだろう」
 二十五となった緯仰の伸ばした掌の上には、力の塊が光の珠となって揺らめく幾筋かの尾を引いている。
 乾いた空気が騒ぐ。
「たまには先に私にやらせて。いつも緯仰君が先だもの、それで片付けられちゃったら、骨折り損のくたびれ儲けだわ」
「仕方無いな。俺はこうしているよ」
 溜め息まじりに緯仰が言う。
 黒いさざ波が迫って来た。浸食しながら地を這う影は、二人の前で形を変えた。
「最近はずいぶん芸達者な影が増えたな」
「退屈させてくれないわね」
 暮はそろえた二指を唇に当てる。
「切り裂けば良い?」
「一気に浄化出来れば上々。難しいな」
「見てて」
 風を切ってその指が空を裂く。
「風呪によりて、貫けっ」
 見えない刃がまるで人型をとった影の体を貫いてゆく。いくつもいくつも散らされるが、影も黙ってはいなかった。煙が伸びて広がるように、黒い手が暮めがけ飛ぶ。
 紙一重にぎりぎりまで手を引きつけた暮は短いスカート姿も乱さずに、木の枝に飛び上がった。
 影の手は勢い余り、このままだと言った緯仰に向かうが、そこは片手で軽く防がれ届かない。
「君が先にやるんじゃなかったのか?」
「防ぐくらい朝飯前じゃない?」
 暮は片目をつぶってみせた。腰掛けていた枝に手を掛けて、背から体を宙に踊らせる反動で影の横に回る。
 天に半円を描くように手を翳す。
 影が方向を変え再び伸ばしてきた手が手前で歪む。放射状に霧となり消えるだけ。
 ふいに攻勢が止め、影は体を地面に溶かした。
 右へ左へ翻弄しつつ近付く黒い物体。目の前まで来たので暮が構えた時、それは影法師のように天を衝くほど伸び上がる。
 高さに気を取られている間に、根元の方からは徐々に横幅も広げていた。
「囲む気?」
 飛び上がろうにもそんな暇はない。壁のように立ちはだかった影の表面がざらつき、そして煙のように変わる。
 まだ背後のほんの少しを残してすでに暮をほとんど囲んでいた。対流するように動き出した影にこれ以上待つ余裕がない。
 暮はすばやく手で印を結ぶ。
「風呪・乱撃」
 瞬時の力の集中によって風の刃を一挙に放つ。影の掻き散らされたあとには暮が立ち上がるところであった。
「まだ来る」
「今度はどうぞ」
「有り難く頂くさ」
 木立ちを縫うように現れたこれまた影型の影が三体。煙幕が落ちるように緯仰に迫る。
「残念だがそんなに長く時間を取ってやる気はないんだ。散れっ!」
 普段の顔つきからは想像出来ない威圧の眼をもって緯仰は力を開放する。
 ばちりと音が上がったのはほんの一瞬で、形も変えさせず一ミリも近付けぬまま影は吹き飛ばされた。
「反応はあったな」
 足下を照らすほど、月は天高くまで昇っていた。


 
 
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