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『サナンドムーンSunandMoon』

 第1話 歯車は動き出す


 目に映るはそう、灰色に霞む空と痛いほど降りしきる雨だった。
 小さな少年は本来なら許されるはずのない待遇を与えられ、そのために雨の中大きな屋敷へと向かっていた。
「ロカ、特別だ」
「あなたの従妹、ビランよ」
 本当ならばその日のように少年の目に映るは灰色の世界だった。
 だがどうだろう。眼前で母の胸に抱かれ笑っている赤子は、競って咲く花の園を思わせた。
 これが深く複雑に絡む絆の間に揺れる、物語の始まりであった。



 馬がお喋りをするように啼く厩舎の中、一際目を引く白馬の体を一人の少女が撫でていた。
 濃い栗毛を艶やかに垂らし、それを軽く銀の細工で止めている。
 身なりは宮廷の近衛兵などの身に付ける隊服に似ているが、深いワインレッドを基調としわずかなフリル使いから、男装とも言い切れない。
 腰にもしっかりと白銀で細身のサーベルを帯剣しているのだが、その顔立ちは高貴な姫君そのものだった。
 気高さと美しさを兼ね備え、王族とまで見紛うほど。その白雪と言われる手が、馬の体を労るように撫でていく。
「見ていても何もないぞ。そんなに見られたら穴が開いてしまう」
 軽く肩をすくめて微笑んで、厩舎の入口に手を掛けていた青年が少女に歩み寄って来た。数歩手前で動きを止め、すかさず跪く。
「おはよう、ロカ」
「ああ」
 少女は微笑みをたたえた。朝日を望むように、ロカは目を細める。
 少女の名はビラン・フェル・ダーウォール。
 華奢な体躯の彼女は、それでも国の中でも1・2を争う領主侯爵家の跡継ぎとなる子女であった。
 立った位置からでは見上げてしまう青年は、名前をロカ・ニールと言った。
「今日はいよいよだな」
「わざわざ披露の宴なぞ必要ないというのに。父上の顔を立てねばならない見せ物人形にされる私の気持ちなんて、誰も分かりはしない」
「せっかくの宴なのだから、存分に女らしくめかし込めばいいんだ。普段はそんな男みたいな格好しているんだからな」
「言っていろ」
 軽く睨んだ表情が、また愛らしかった。
 屋敷の建物の半地下のようになっている裏手の厩舎を出ると、見渡す限り緩やかな裾野とその草原の先の地平線が目の中いっぱいに映し出される。
 この上に広がる、豊かな青の空を翔ける艇がこの国にはある。
 この国の名をシアトロと言った。 
 この世界の、実に九割の平地が常に濃い霧に包まれており、“亡者の大地”と忌み嫌われている。
 それゆえ多くの国土は高い山脈の峰々にあり、“宙艇”と呼ばれる飛行艇が大きな交通手段とされてきた。
 幸いにもシアトロは、世界の中でも霧に包まれない平地をもつ数少ない国なのだが、そのために“清浄の地”を欲するがための他国の侵を略受けて来たというのが、この国の歴史なのだ。
 シアトロは太公を戴き、十三州を置く。州一つひとつには宙艇艦隊がおかれ、その州の領主が部隊の長も司る。
 いまダーウォール家が治めるヤルトは、ビランの父が領主とその艦隊の長に在る。
「艦隊だけではなく他州のお偉方、果ては王族の誰がしかも来るんだ。観念しなければな」
「艦隊だけだろうと私は嫌なんだ」
 そのヤルト艦隊を近い未来父親にかわって、このまだうら若き乙女が束ねるのだ。初めて乗ったのはわずか二歳足らず。
 本格的に宙艇に乗り出したのは十三歳の時だった。
 それまで淑女としての教育を受けながらも、あらゆる武術・戦術・知略といったものを身に付けさせられて来ていたが、そこでは実践的なことが教え込まれ、動きやすい軍象的な服装を好んでするようになった。
 そして御年十七歳、誕生祝いの席は晴れて成人としての公式な披露目の儀となったのだ。
 その夜ダーウォール伯爵の城には、ホールを埋め尽くさんばかりの客が招かれた。
 談笑を交えながら彼らはいまかいまかと、中央に据えられた大階段に目をやる。
「ほら、お出ましだ」
「おお、あれが」
「まあ、お美しいお嬢様でらっしゃるわあ」
 ゆるやかな足取りで父親に導かれ降りて来たのは、華やかに着飾った乙女、何を隠そう淡いローズピンクのシフォンドレスを纏うビランだった。
 祝賀の嵐の中、一区切りつけて伯爵の口上が切り出された。
「見ろよ。あれが名高きヤルト・ダーウォールの箱入り娘だぜ」
「婿殿はヤルトの領主の称号と、あのお姫さま両方が手に入るって寸法か」
 どこぞの傍流貴族の子息たちは、さすがと言うのかビランを値踏みするように眺めながら、皮算用としゃれ込んでいる。
 同じく似たようなことで盛り上がっていた、貴族や軍人将校の紳士方の一人があることに目を向けた。
「待てよ。ずっと隣りに立っている男は……」
「婚約者ですかな」
「ほお、では伯爵からそろそろ報告があるのでは?」
「いやいや。あれですよ、十数年前のニール家お取り潰しの一件で──」
 数瞬の後、得心がいったのだろう紳士たちの口からは、ああという声がはっきりと漏れた。
「トゼーリ・ニールの落胤か」
「はっ、いくら血筋に名を連ねているとは言え、まさかノリノール侯の令嬢を手込めにするとはな……」
 語尾が消え入りそうになったのは、視界に再び伯爵が入ってきたからだ。だが話をやめる気はないらしく、また別の肥えた紳士が喋りだす。
「お取り潰しは当然だ。いくらご婦人たちに目がないとは言え。なあ、ハリストン卿? まったく卑しいにもほどがあったものだ」
「お家断絶、息子は婚姻も許されぬ。まったく真似出来ませんなあ」
「一生飼い殺しの狗だ、あれは」
 会話の続きのようだが、この引き継いだかのような発言は、ホールに集まる人々の群れから離れて優雅にくつろぎ、次々と杯を空ける青年だった。
 歳はさきほどの子息たちと同じくらいだろう、血気盛んな目に悠々とした笑みを浮かべている。
 しかし言葉の響きは嫌味さを禁じてはいなかった。
 宴もたけなわを迎える頃、ビランは疲れを理由にロカとともに宴の途中で席を辞して自室に戻った。
「よくも飽きないものだ。お美しいお可愛らしい、揚げ句の果てにはさすがダーウォール家。耳が腐る」
「だが類い稀なる美貌、これは認めるべき事実じゃないのか?」
 むくれながらも、ビランは邪魔な飾りをはぎ取っていた。
「確かに母上のお美しさは絶世と言っていい。父上に似なかったことだけは感謝しないと」
 十七歳。それはシアトロを含む多くの国の女性にとって、成人とされる歳となっていた。
 時のヤルト領主、エドイック侯は愛娘の成人の祝いの儀を盛大な披露の場とした。
 暗には正式な跡継ぎとするということを孕んでいる。
「お嬢様! まあせっかくのドレスが!」
 退席したことを察して追ってきた乳母やが、ドアを開けるなりドレスを来たままくつろいでいるビランを叱りつけた。
「分かった今すぐ着替える」
「では俺は外に」
「あとで呼ぶ。ホールには戻るな」
「ああ」
 ドアが閉められると、途端にビランはむしり取るように服を脱ぎ捨てた。
「はあ。まあまあそれにしても、それぞれのご子息様方は、お嬢様を一目見るなり、顔色が変わっておりましたよ。最初にお祝いのご挨拶を述べられた、国王様の名代の第二王子様なんて、そのあとあまり席もお立ちにならずに、ずっとお嬢様を見ておいででしたよ」
 興奮覚め遣らぬようで、乳母やは話しを続けた。
「これで王子様がお嬢様をお見初めになられたら、乳母はもう思い残すことも」
「ばあや、からかわないで。だいいち王族に嫁いだら、誰がこのダーウォール家を継ぐの。ヤルトの宙艇艦隊は私が指揮するのよ」
 それは強き意志の炎に瞳だった。


 父親を乗せた宙艇艦を見送るビランの背後には、ちょうど初夏の祭りと重なり賑わう街が広がっている。
 これから本格的な夏を迎え、腰を入れて働く前のいわば前夜祭のようなもので、前日のダーウォール城の披露目の宴とあいまって、早朝からの市や露店が立ち並んでいた。
 そんな中ヤルトの州都から離れるようひた走る馬車も何台か見受けられた。 朝の一報を聞いて、自分の領地にとんぼ返りするはめになった来賓諸侯たちである。
「ピョーダンと手を組んでいる小国の偵察艇数機が、ヤルト領地の西端の国境を超えたとのこと」
 報告が入って来たのは、お披露目の宴の翌朝未明のことだった。
 かねてよりシアトロが持つ“清浄の地”を狙う、海のあちら側に位置するピョーダンは、周辺諸国の中でもいくつかの小国を抱き込み、常に機会を伺ってきた。
 幾度かの開戦の歴史に加え、隙あらばと何かと抱き込んだ他国を使っては探りを入れており、今度の事もまたその類いだった。
「ビラン。お前は城にいるんだ」
「なぜです。ダーウォールの嫡子として、ご一緒します」
「だからだ。留守を頼む。ロカ、ビランを頼んだぞ」
「はい」
 それだけを言って置いて、ヤルト領主エドイックは宙艇艦隊とともに西へと向かって出立した。
 そのまま宙艇や馬車で帰る来賓を見送ったが、国王の名代で来ていたシアトロの第二王子の姿はすでになかった。
 一報と同時にすでに宙艇で城を出たと言うことらしい。見送ったままビランは、城の外壁伝いの階段へと赴き、そこに座って鼻を鳴らした。
「ふん」
 城壁を撫で伝う風に髪がたゆたう。
 跡継ぎだから、年頃になれば父親の補佐をして一戦で働くというのが、当然と思ってきた。それでも自分は女であり成人ではない年柄、様々な目もあると自粛していた。
 お披露目の矢先のことだったということで、少々堪えたようだ。
 そんなビランの背後には、ただ佇んで見守るロカの姿がある。
「街に……」
「なんだ?」
「街に、出てみるか」
「ああ。いいな」
 裏門から出て城の丘の急な坂を下るとすぐに街の端に入ることができる。
 どこもかしこも朝から酒樽を空け、歌えや踊れやの大賑わいだった。
 帯剣をし、あくまで素姓を隠すための男装すれすれの格好に長い髪をたなびかせているビランは、誰の目からも目立つ。
 くだらない馬鹿話に花を咲かせ英気を養っている人間には、かっこうの話のタネになる。
「えらく美人だが、男か?」
「いやいや女だろ」
「お客さん、知らないんだね」
 しかし店の女主人は知っていた。いつもなら隊服であらわれる彼女が女であることは、馴染の店やその回りには周知のことだった。
 しかも、この店の女主人だけはその素姓も知っていた、それは胸の中の秘め事になっている。
 それをいざ思い起こさんとしている時に、表通りの先から悲鳴が聞こえてきた。
「やめてください!」
「いいじゃないか。酌の相手ぐらい」
「お、こっちの女も悪くないぞ」
 ごろつきの人相に目をつけられたのは、偶然にも通りかかったビランだった。
「待て、男じゃないのか?」
「構いやしない。どちらにしろべっぴんさんにはちげぇねえ」
 振り向く間もなく腕を掴まれ引っ張られる。その男は獲物を仕留めた気分だったが、目の前に迫ったのは白銀に映る自分の間抜けな顔だった。
 だがしかし、男たちは笑った。酔っていてまともな思考を持ち合わせてはいなかったのだ。
「脅しなんて効かねぇぜ、ねえちゃん。いや、あんちゃんか? まあ、」
 ベッドで確かめればいいことだ、と刃をものともせずに顔を近付け卑しく囁く。
 それでもさらにその上に立つ余裕が、ビランにはあった。
「その手を放せ」
 低くも通った声が男たちの視線を集めた。
 酔っている上、目的のもの以外は目に入らなかったのだろう。すっかり視界からはぶかれ者にされていたロカが歩み出る。
「けっ。寝ぼけたことぬかしやがっ────」
 言葉の途中で、口は塞がれてしまった。傍らで顕になっているいま一つの剣とは、正反対の輝きをもつ刃だった。
「誰だと思っている」
「この野郎、なにしやがる!」
 一気に血が上ったのか、ほぼ同時にすべての男が剣を抜いた。まずは男の方をと思ってか、三人ほどがロカを取り囲む。その後ろでまた別の一人が、ビランの首に手を掛けようと音を立てずに近付く。
「やっちまえ!」
 怒声とともに一斉に事を起こしたが、ロカは正面の一人を払いのけ、ビランは身を躱して剣に剣ではじき返した。
 気がつけば二人が並んで、ビランの剣は下げられている。
「ふん縛られたいのか」
 ごろつきの一人の目が、銅色の刃の付け根に釘付けになった。
「それは、ダーウォールの……」
 その一言で伝わったのか、男達はバラバラを逃げていく。
 見れば騒ぎを聞き付けた警邏中の衛 兵がこちらに向かって来ている。
「衛兵、あいつらを捕らえろ。全部で六名だ」
 衛兵たちはロカの指示に、慌てて向きを変えて駆け出していった。
「すぐ捕まるだろう」
「ダーウォールの者に手を出すなぞ、恥知らずが」
「さあ、バランザの食堂にでも寄っていくか」
「あまり長居すると、伯母上に叱られるぞ」
「ほんの憂さ晴らしだ。家を出奔されないだけ良いと思ってもらわねば」
 ロカが笑う。ビランもさらに吹き出す。
 兄弟であり同志のような信頼がそこには息づいている。
 命を任せ、任される関係はその証拠なのだ。


 ダーウォールの城は小高い丘の上だったが、その袂から南に広がる領地は見渡す限りの平野だった。
 空は晴れ渡り、野には緑の息吹が波打つ。
 当たり前のようでしかし、この世界では極々稀なる土地柄なのである。たてがみを風邪に揺らす白い馬の毛並みは、緑豊かな平原と恵みの陽によく映えた。
 一歩遅れて青毛の馬が追従している。
「遠乗りは久しぶりだな」
「何を言っている。つい三日ばかり前に出たばかりだ」
「そうだったっ」
「ビラン!」
 あまり無茶をするなと言うロカの瞳は、女だてらな彼女を映し続けた。
 町を抜け村を横目に、二人はぐるりと領地を回って森の湖畔で馬を降りる。
「今日は暑いな」
「ああ。いやに蒸す。汗をかいただろう。早く乾かさないと──」
 振り向いたロカは瞬間ぎょっと目を疑った。
「び、ビラン!」
 空を仰ぎ見ていたロカが振り向くと、ビランはワインの隊服を脱ぎ捨てていたのだ。
「汗流しに泳ぐ。何を驚いてるの」
「男の前で無防備に服を脱ぐな!」
「肌着は着ているし、これくらい小さい頃から普通だっただろ。ロカは私には兄上のようなものだからな」
「小さい頃の話だろ! 今は違っ──」
 ロカが止めるのも間に合わずにビランは湖面に飛び込んだ。
「ビラン!」
 聞かずにはしゃいで泳いでいく。
 見ていられなくなったロカは、顔を逸らすように側の木立ちに寄り掛かり座り込んだ。
 気恥ずかしい。見ていられないのに、見ていたいという気持ちでいっぱいで、さらにロカの心は疼いた。
 いつからだろうか。この六つも下の従妹が愛しいと感じるようになったのは。
 最初は妹だったのだ。可愛らしく利発で快活で、自分が見て守っていなければと思っていた。
 自分の立場はあの頃からすでに分かっていた。だから、もし分不相応にも間違った想いを持ったとしても、それは永遠に叶うことはない。
 ほとりで水の跳ねる音がした。立ち上がったばかりのビランの両肩に暖かい温もりが降りる。それはロカの上着だった。
「体を冷やす」
「ありがとう。ロカは良かったのか?」
「……子どもじゃないんだ」
 口ごもるロカを尻目に笑い声を転がして、ビランは脱ぎ捨てた服の小山に駆けて行く。
「私がじきダーウォールを継いでヤルトを治めるようになれば、こんなことなどしていられなくなる。ピョーダンとの戦が始まればなおさらだ」
 ロカは黙って聞いていた。
「継ぐ段になれば結婚話も出て来る。おそらくそうなれば、そのまま婚儀まで進んでしまう。その先も考えるとうんざりだ」
 手早く身支度を整えて、ビランは馬の手綱を取った。
「さっ、たいがい戻らなければ母上にお叱りを食らってしまう。父上もじきにお帰りになるわ」
 そのまま颯爽と跨がってしまったビランには届かなかっただろう。
 ビランにしては何気ない言葉だったが、ロカに衝撃を与えるには十分だろう。
 それでもロカは何ごともなげに、馬に──少々馬にとっては、乱暴に飛び乗った。
「ほらっ、父上のお帰りだわ。急がなくては」
 草原の遥か向こうに、船団の影が点々としていた。


  
  
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