『式師戦記 真夜伝』
第四十八話 わずかに解氷し
――怖い。
血が滴る路地裏の袋小路、送電線が立てた乾いた音、佐伯本家の時もそうだった。
それでも必死に、あの広い背中を追った。
もう足手まといにはなりたくないから、役立たずではいたくないから、すくみそうな足を、何度も叱咤して、裟摩子は階を上った。
最近では多く白を任され、それに甘えていたのかもしれない。
悔やまれる気持ちが端から、怖さに塗り替えられていく。
車を降りたときには、なかった気配が表れ、感じたのは自分だけではないことも、裟摩子は分かっていた。
その速まる足を追うのが、精一杯だった。
「裟摩子は下がっていなさい」
「棗さん」
「ごめんなさい。けれど、ここは譲ってちょうだい」
譲るもなにも、目の前にいるのは倒すべき影。
己は、影を倒す者。
援護を任された。
今一歩を遅れる間にも、散らした後からまた集まってくる気配がする。
「裟摩子」
「はい」
「影は目の前の者だけじゃないわ。集まる影に集中して。一対一と思えば、さほど恐れるものじゃない。白も赤も影に変わりはないわ。大丈夫よ。あいつは、私が封じるから」
「はいっ」
背筋に冷たい汗が下りる。
白はただの浄化だった。それによって、相手の命に差し障りのある事例も、ないわけではない。だが、攻撃性はなく、ただ憑く影を送り出してやれば良いだけだった。
それに、いま集まって来ようとしている影もまた、濃さが常とは違う。
まだ目の前にいなくとも分かった。
ひとつ慎重に、深呼吸をする。引き攣りそうになりながら、ゆっくり、ゆっくりと。
そうやって得たつかの間の静の時を、嘲笑うような声が切り裂く。
「威勢がいいのは結構なことだ」
風がふわり降りるように、鎮破が追ったはずの影の男は、棗の頭上に舞い戻った。
「遊びがいのあることよ」
「そうはさせない」
男が手を伸ばしかけたところで、横からネオンに反射した切っ先が、空を切る。
「おっと、おっかない。言っただろう、お前の相手はしていられないと」
「相手など、してもらうさ」
そのまま下から切り上げる形で、鎮破がまた一閃を繰り出した。
くるりと宙を返り、影の男は獣の名を呼ぶ。
「カガリ」
それを合図に獣型の影は、棗と裟摩子を目がけて駆けだした。
さほど間もなく、援軍のように呼び寄せられた、煙りをたなびかせたような影達が、屋上へと這い上ってきた。
男を追いながら、鎮破がちらと振り返る。
「大丈夫よ、鎮破。そちらを足止めしててちょうだい」
棗が、しなやかに歩み出た。
「あなたはどいてもらうわ」
翻弄するように右へ、左へと体をずらしながら、黒い巨体が牙を見せて迫る。
風にのせるように、棗の右腕が真横へと浮き上がった。
「流水の宴」
その手が獣へと向けられた。
見ている者に水の流れを見せ、その渦に標的を縛る。
獣型の影は渦を逃れ、飛び上がったが、
「流水の宴・返《かえし》っ」
棗の厳命に、流れはさらに影を追って、天地逆転に降り注ぐ。捕まえようと執拗に、緻密に、天を流れゆく。
駿足形であるはずの影を、いつにない格の相手を、棗はそれでも、躊躇なく攻める。
その駿足をもってして、影も思いの外、水の手から逃れられないでいた。
「鎮破、代わりなさい」
この屋上に登ってきた時の焦燥とした様子は、いつ変わったのか、今や欠片さえも瞳には残っていなかった。
棗と影の攻防を気配で感じとりながら、這い上がった他の影に、裟摩子は立ち向かっていた。
寒気を誘うように、靄が集まったような三体の影型の影が、裟摩子を取り巻こうとしている。
裟摩子は二人の方を気にしてしまいそうになるのを抑えて、短くだが深呼吸をした。
固く握りしめた手を口許に、囁く。
「杜森、理生」
「はい」
「ここに」
杜森《ともり》と理生《りお》、二人の自らの小将が裟摩子の両肩に上る。
「江麻」
そして最後にもう一人。最も近しい小将が庇うように、裟摩子の前へと現れる。
「束縛」
三人の小将が同時に飛び出す。
夕烏の声が、家の中まで空しく響いていた。残光により、庭は秋の色が深くなる。
当主夫妻が外出し、先代は書道の会合の準備で、隣接する書道の教室にこもっている。
一式の屋敷は、静まりかえっていた。
普段は閉じられ、一式の者のみが開くことの出来る奥の間も、静謐を保っていた。
何の音もないまま、障子が滑る。
床の間に封ぜられる、透いた輝きには、顔が映し出された。
「証の……玉」
この日再び極度の眠気に襲われ、緯仰によって送り届けられた真夜が、証の玉に映し出されていた。
だがその面持ちは妖しく艶めいて、虚ろな瞳は、見下ろすように、水晶の玉に向けられている。
声すら別人のように、紡がれていた。
「証か……大きくなったものだ−−」
「何をしている」
後ろからふいに声をかけられ、差し出した手が、動きを止めた。
すでに証の玉の前に、へたりと座り込んだ形となっていた。わずかに首を、ゆるりと向ける。
開け放したままであった障子戸のところに、兄である臣彦が険を含んで、立っていた。
「……ぃさま?」
「今日も帰ってきて、伏せていたんじゃないのか」
答えを聞かずに、部屋へ押し入る。
真夜の額に、常より薬草を摘み、潰して、調合を仕事としている手が、急ぎ触れた。
「薬は飲んだのか」
「なんで……」
真夜の眼はいま、現実を見つめていた。
絞り出した言葉は、さらに臣彦の眉間に、深くしわを表した。
「俺が心配してはいけないか」
「にいさま……」
ふいに遠退いた兄の声に名を呼んだまま、真夜は意識を手放した。
気がつくと、真夜は霞んで映る顔を、ぼんやりと見上げていた。
「大丈夫か」
それが兄であると認識するまで、しばらくかかる。
「薬は飲んでるのか?」
「……飲んで、る。少し、眠いだけ」
臣彦は短く、息を吐いた。
「ならいい。……俺がしてやれるのは、薬を作り、飲ませてやることだけだからな」
めったに顔も合わせず、揃って並ぶことが、この兄妹にはあまりない。改めて比べた、得心のいかない真夜の表情はやはり、妹と証明していた。
思いがけない言葉を、臣彦は続ける。
「出来るならその役目、俺が代わってやりたかった」
「ごめんなさい……」
「なにを謝る」
「だって」
「俺は、……兄として、お前が心配なだけだ」
その声音を察した真夜は、顔を上げた。
「俺には式師の務めが分からない。もちろん行なわれていることは知っているが。抱えているものは分かってやれない」
項垂れるように、視線を逸らした青年は、声も体も、縮こまって見えた。
「かけてやれる言葉が、見つからない」
誰を見ているのだろう。言葉を聞いた真夜は思う。
唐突に視線が真夜を、捉えた。
「俺には、薬を作ってやることだけだ」
「……はい」
それは自然に出てきた応えで、精一杯の言葉だった。
ずっと小さな頃から、その背中に怯えて、卑屈になっていた。
最初からじゃなかった。背中を向けられるたびに強張って、萎縮していったことを思い出す。
けれど、けして嫌われているからでもなく、式の力を唯もつ自分を、疎んじていたわけでもなかった。
穏やかな心地の中で、真夜はまた、意識を手放した。
主とその兄の声に、小将たちはおろおろと見守っていたが、会話の行方を見届けて、ほっと胸を撫で下ろしていた。
「ご無沙汰しておりました、熾おばあ様。おめおめ三式の敷居を跨いだこと、申し訳ないと思っております」
深々と頭を垂れた青年の先に、老齢の女が一人、座っていた。
「三の華」と呼ばれていた頃から幾久しく、今はただお茶の水拭流家元に納まり、後進の行く末に目を光らせている、三式現当主で棗の祖母に当たる、三式熾その人だった。
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