『式師戦記 朔外伝』
 
 第一話 輪廻の始
 

  蛍光ゆらめく川辺。幼い2人は月光薄明かりの中、楽しげにそのゆらめきを追っていた。
 幼子の片割れが、川向こうの暗がりの林に目をやる。
 闇が動くということを初めて見た瞬間だった。
「朔……」
「ねえちゃん何あれ……」
 姉の呼ぶ声に同じ顔が強張った。




 天下の往来は市で賑わっていた。
 夏を彩る旬の野菜。職人が手間をかけた工芸の品々。貴重な生鮮の食物。
 籠や器をもった女たち、包みを背負う行商、旅風情の者があちらこちらとのぞいては品定めをしていた。
 髪を束ね垂らす乙女が、ふと足を止めた。「朔……朔じゃない?!」
 呼び止められたのは修験者の着る白衣に袈裟をかけた、一人の青年だった。
「……桂姉さま? 姉上!」
 同じ顔が鏡の ように向き合う。
「そうか。ここは……お久しゅうございます。久しくご尊顔を拝し奉れず、情けのうございます」
「元気そうね。父上は?」
「はい! 姉上も見たことがおありでしょう、闇が動くその様を。あれが人心を食らい、この世を乱している。私どもは幾度もそんな光景を浄化して参ったのですが、至って息災でおられます。私は入り用の物を言いつかりまして。姉上はこの上なくお美しくなられて、祝着至極にございます」
「それは自画自賛と同じこと」
 あ、と朔は小さく声を上げた。
「そう言われましても、己の顔を見たことなどありませぬゆえ……」
「それもそうね」
 以前にこう笑い合ってから、二人は幾年月を別れていただろうか。
 桂も、朔もお互いの存在を隣に感じながら同じ事を考えていた。
「姉上、母上はどうなさっておられるのですか?」
 桂は黙ったまま鏡写しのような弟を見つめた
「……朔、お願いがあるの」
 陽は高く昇っていた。



 森深い合間を、紅い炎が照らしていた。
「ただいま戻りました」
 十二の双黒が集まる。
 大丈夫。
「遅かったな」
 先じて掛けられた、中央の小岩に腰を据えた壮年の声は懐かしいものだった。
 手前に座っていた、まだ目を少年のようにきらめかせ、歯を見せつつ肩に手を回してきた男。気取られないか心配したが、杞憂のようだ。腕や脛を布で巻き、肌の露出を押さえている装い。そして額を覆う鉄を編み込んだ額当て。これが又兵と言った。
「やっと戻ってきたな、朔」
「物は手に入ったのか?」
「はい」
 長刀を肩に載せ、ぶっきらぼうな口をきく体躯の均整のとれた男、名を幡治《はんじ》と言った。
「……玄法様」
 幡治が朔の持つ物を受けとり、橋渡しをした。
 玄法《げんぽう》――玄鳥法師。朔の父であり、桂の、六年ぶりに顔を見る父であった。
「ああ、これで良い。悪い噂を聞いた。今宵戻らなんだら先んじて発つところだった。お前の事だ、大方家を思い出したのであろう。かなきや桂は息災だったか」
「ええ……お変わりなく……ち、父上はお会いには行かれないのですか?」
「息災ならいいのだ。返って血生臭い事を招いてしまうやもしれぬからな」
 朔は、朔に変じた桂は、震えかけの手を長い袖口に隠していた。
 震えながらもその反面、上手く謀ることが出来ていることに安堵していた。
「父などと久しく聞いてはおらなんだが。お前も皆に合わせて父とは呼ばなくなっていたものを」
「……申し訳ございません、玄法様」
「謝ることはなかろう。郷に帰って思い出したか」
「朔。疲れたろう、薬湯だ」
「ありがとうございます」
「玄法様はああ言ったが、我々二人も先刻戻ったのだ。あれで玄法様はお前を心配しておられたのだろう」
 穏やかで、親しみの情のこもった笑顔。ざっくばらんだけれど、束ねている髪。耳に切り傷がある。
「お心優しきお言葉かたじけない、……勒宵」
 朔は適格に特徴を表していると、桂は器を受け取りながら思った。戻ったならば、ただちに休まるものを勒宵が出してくれるだろうと。その傍らには火の番をし、鼻歌を口ずさむ秀麗な男がいるだろうとも言っていた。
「……汐畝。今日の楽はなんと言うのです?」
「朧なる川と言う。故郷の川を思ったものだ」
「汐畝。今日は舞わないのか?」
「又がうるさいゆえ、今日は舞わぬわ」
 一斉に笑いが湧き上がった。
「玄法様……」
 気がつくと、玄法の背後にまた一人の男が膝をついていた。
「……そうか。申にも宜しく伝えてくれ」
「御意」
 見覚えがあった。六年前も、よく留守がちだった父に付き従っていた者、駕之と言うはずだった。桂たちより四つほど上で、玄法の目となり足となり、右腕として従っていた。
 その駕之とふいに目が合った。桂としては心拍が跳ね上がらなくもなかったが、朔を演じきって笑顔を向けた。
 駕之も、笑顔で会釈をして背後の茂みに姿を消して行った。



 懐かしい戸を叩こうとする、手が震える。
(朔、私の代わりに母上を守って欲しいの)
 姉の頼みは突飛に聞こえた。けれど己はいまここに立っている。
(母上は、三年前の流行病に当てられて、それ以来伏せがちなの。実はその頃から、あれも頻繁に現れるようになったわ)
 姉の示すものの意味を、朔は十分承知していた。
 あまり大袈裟にならないよう、やさしく戸を叩いた。
「母……上……」
 昼間ゆえに、外の明るさとは反対に、家の中は薄暗かった。
 「桂……帰ったのかい?」
 床に横たわる母は、覚えのある面影よりもやつれていた。
「母……上!」
 朔は、堪らず飛び縋った。
「朔……かい? あなたどうして……」
「姉上が……」
 朔は矢継ぎ早に事の次第と、父の息災だけは伝えた。
「桂……やはり……」
「母上?」
 うっすら涙を浮かべた母に、朔は問い掛けた。



 朝を待って一行は野営地を離れ、二度夜を向かえながら歩いて山を越えた。
 その間も双子の弟を演じる事に徹していた桂は、正体を嗅ぎ付けられることなく、朔になりきっていた。
 途中立ち寄った里の者から、谷の方の者からの荷がここ数日届いていないということを聞き、一行はまた山に入った。
 聞こえてくるは、ただ木の葉や枝が風にそよがされ擦れる音ばかり。つかず離れず、思い思い、皆岩陰なり木陰なりと寝静まっていた夜半過ぎ、奇妙な悲鳴が山間に響き渡った。
「何事!」
 誰ともなく起き出し、火が灯される頃には辺りを伺った。
 その間にも三度、またしても奇妙な悲鳴が聞こえる。
 午の方角から何かがガサガサと音を立てて近付いてくる。
 それぞれが周囲に注意を払って身構えた。 辺りに冷気が立ち込め、異臭さえし出した時、それは現れた。
 木々の間を闇がこちらに向かって突進して来る。ふつふつと周囲を飲み込み、吐き出し、向かって来る。
「妖めっ」
 幡治が長刀を抜きさった。
 闇には人の手や足や頭が、あらぬ角度で見え隠れしていた。
「上流の谷の者を襲ったか」
 言う玄鳥の前を汐畝と勒宵、最前に幡治が立ち塞がる。又兵は、朔となった桂と対称の形で玄鳥を挟んでいたが、目は背後や周囲を見張っている。
「来いっ」
 闇の頭が幡治へと及ぶ。長刀の切っ先が闇に達する前に、闇が翻る。
 勒宵や汐畝が回り込むが、闇はまた林の中に入ろうとしていた。「そっちへ逃れたぞ!」
「承知っ」
「あまり近づくな! 距離を取れ!」
 玄法の檄が飛ぶ。
 朔の言葉が浮かぶ。(心を落ち着かせて、念を、ぶつけるんです。姉上になら出来る……。闇に向かって、手を翳して……)
 幡治と又兵が追いつめ、再び闇がこちらへと姿を現す。
「どけっ!」
 桂はとっさに目の前の勒宵を遮り、前に押し出た。
 手が闇を捉える。
 闇が散らした木の葉が、桂の周りで音を立てて弾かれる。
 桂の手から放たれた仄明るい光の玉が、闇を包み込んでいく。
 奇妙な悲鳴──ではなく、奇妙な断末魔が耳を劈く。
 びちゃひちゃと闇の残骸とともに、人の体だった物が落ちる。
 目の端で、その塊に幡治が勢いよく刃を突き立て、何ごとか言霊を唱えた。
 また別の塊を、又兵が首とおぼしき所を斬り、血飛沫を受けた手を剣に当て言霊を放つ。
 終息しかけたかと思えた矢先、闇の背後からゆらりと躍り出て来た最後の一体を、勒宵が容赦与える隙なく貫いた。
 遺骸は計三体。闇は真の闇へと葬り去られ、残ったのはかつて生き人であった物だけだった。
 返り血と言えるか定かではない黒い飛沫を浴びた格好で、皆が息を整えていた。
 いつしか、玄鳥の経の声が満ちていた。
 五人はただただ、見守っていた。
「……良くやった」
「朔! 今日のお前すげかったなあ!」
「どうした朔。いつもは一杯一杯の顔をしながらやるというのに」
 又兵が頭を撫で繰り回し、汐畝も乗って肩を叩く。
 玄鳥も惜しみない笑顔で息子を褒めた。
「良くやった、朔。迷いがなかった」
 桂の胸が暖かさを感じていた。
「見惚れたぞ、朔」
「勒宵も。私もあのように出来たら良いものを」
「あれだけの物を見せつけられ謙遜されたら、我らはどうしようもないな」
「幡治。少しは素直に褒めてやったらどうだ」
 南の山の稜線に、白線が広がる。
 朝靄を裂く朝日が辺りの有様を照らし出していた。
 南に下るにつれ、闇の襲来はひどく、数も増える一方だった。
 村ごと襲われ、これからという田畑がみな墓と化した場所もあった。
 闇に食い落とされた子どもを、掻き抱き泣き叫ぶ所にも幾度と遭遇した。
 それでも桂は朔を演じ、必要とあらば仲間とともに力を奮った。
 この頃には、自分がずっとこの中に身を置いてきたような錯覚を起こす。
 闇が憎かった。ただそれだけで朔を装い行脚に身をやつしたが、本来女であり村を出た事のない桂は、これまでには感じたことのない暖かさの高ぶりを知った。
 人の儚さを自覚するのではなく、それを食い汚す闇が許せない。
 己の力がその闇を退けることになるならと、ここまで来た。
 それが出来ているということに、己が確固たる存在として満たされていた。



 仲間にも立場にも、旅にも慣れてきた折り、朔は川の水を汲みに出ていた。
 秋も深まり、川の水は手を冷えさせた。
「朔!」
 薪拾いに出たはずの汐畝が、朔となった桂を呼ぶ。
「どうしたんです?」
「玄法様が皆をお呼びだ!」
「相分かった」
 早々に桶を満たし、桂は足早に今夜の野営地に戻った。
「申と駕之が何やら聞き付けたらしいですが」
「話に寄れば、経路を辿れば東の方から流れてきていると言う。ならば私はあの東に連なる山の向こうを目指したいと思うのだが」
「意義無し」
「そのため我らはここまで旅して来たのです」
「異存はありません」
 一同に頷く様を玄鳥は見渡した。
「そうか。では明朝ここを発つ。その前に。桂」
 玄法の双眸は、一線に朔を──朔に変じている桂を見ていた。



 
 
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