『式師戦記 朔外伝』
 
 第五話 逢魔が辻
 


 薄暗な蝋の灯の中で、白檀の香が薫きしめられていた。立ち込める香の向こう、御簾の網目をすり抜けて来た月明りがかろうじて絹の表面を浮き上がらせる。
「どうであった」
 聞き慣れ飽きたものだが、響きの通る声色がこれまた聞き古した太い声に変じた。
 衣擦れの音もなく御簾越しに、年相応の父の皺が首が現れる。
「玄鳥法師様のご息女はだいぶ。しかしそれ以外は微々たるもの。……そのご様子では、何故かお分かりの様ですが」
「彼らは、紫鬼の玉を持っておるようだ」
 御簾を上げて、道方はその段に腰を下ろした。


 朝靄がまだまほろばを覆い隠している。それでも郷ならばすでに大半の者は起き出し、朝餉の支度を済ます頃合だ。
 ついこのあいだまでそういう暮らしをしていた桂の身体にも、それは染み付いていた。朝焼けの前に目が覚め、それでもここではすることがなく、落ち着かなげに身支度を整えて縁側へと出る。
 髪を撫で付けながら受ける空気はひやりとしていた。
 郷にいた頃には思いも寄らなかったが、今自分は、都に来ていた。一度は訪れてみたいとは思っていたが、こんな形で叶ったのだ。
 静まる庭園、棟のあちらからは朝餉のための湯気が格子の間から立ち上ぼり、まだ陽はその姿の片鱗さえ見せてはくれていない。
 階に腰を下ろし、桂は掌を開けた。
 一縷のように現れた炎から、可愛げな小人が出《いで》る。
「桧樋……」
「おはようございます」
「おはよう」
 桂と共に在ることを契った力が成った姿がそれであった。その小人に、桂は亡き友の名を与えた。
 彼女の魂が応えたものでないことは分かっていた。それでも桂は彼女の代わりに共に生きることを託し、その名を付けることを決めた。
「……私の名前は桂。あなたは桧樋よ」
 嬉しそうに頷く姿は、その名で呼んでいた友に似て見えてくる。どことなく自分を温かく見守る存在が重なっていた。
「桧樋……」
「お泣きにならないで下さい」
 まだ一粒と流さないのに、その小人は鈴のような声で言った。
「泣かないわ。大丈夫、あなたがいるもの……」
 勢いこんで上を向いた桂を、朝焼けの紫に染まる空の端から、目覚め出した陽が照らす。
「彼女の御霊そのものではないのに、その名を付けるか」
 ふいの声は三度めになる。
「何か」
 もう驚きはしなかったが、馬鹿にされたようで桂は多少不機嫌に答えた。
「いや」
「……彼女の代わりと言ってはなんですが、私とともに生きてくれる存在なので」
「今日は神泉苑にお連れ致す約束。陽が昇ったら案内仕る」
 そっけなく言うと、摘明は寝所の方へ歩いていった。


 都の朝もそれなりに早い。開門と同時にしか入ることの出来ない役人は、夜明け前よりその時を待つほどだ。
 朝の喧騒が収まった時分、桂達は摘明に連れられ神泉苑に参っていた。
 滾滾と湧き満たされる広大な池、それを四季折々を彩る木々や草花が囲む。波紋すらたたない池の面が、内裏の空が映し出していた。
「ここは禁苑なのだが、昔から霊を鎮め雨乞いをするなど、様々な儀式の場となってきた聖地の一つでもあるのでな」
 あれは、と指差した先には四本の若竹が差し囲んであった。
「昨日の魂鎮めの祭りに合わせて立てられた」
 涼しげな音を立てて竹が揺れる。
「あなた方は玉を持っているはずだ。それをこの水の中へ」
 四人は一様に懐から透き通る玉を取り出したが、桂はその様子をただ見守るしかなかった。
 自分は持たない、知らぬ物を、彼らは然るべく持っていた。
「それは?」
「玄法様から頂いている宝玉だが……」
「やはりお前は持っていないのか」
 幡治が先頭を切って玉を池に沈めた。
 ひんやりとする感覚手に受けながら、幡治は言葉を続ぐ。
「我々は元々備わる力にこの玉の力を与えられ、影なる者どもに対抗してきたんだ。ずっと考えていた。我らよりも強いお前のその力の源に、この玉はあるのかと」
 男達が倣って手の玉を池に浸す光景は、桂の心に雲を運んだ。
「玄法様の御子とは言え、血とは言え我らより経験は劣る。だが出会った時からお前は力を出しこなしていた」
「……そんなに羨ましいか」
 聞いたことのない鋭く低い口調に、四人は弾かれた。
「幡治はこの力、羨ましいか。私は、皆の方が羨ましいぞ。父上の宝玉とやらを持っているのだからな」
 言うだけ言った桂、咄嗟ではあったが辛うじてそれを追った勒宵、その姿瞬く間に門外へと消えた時、幡治ら残された者達はようやっと二人を追いかけた。
 摘明が初めて見せる憂いの瞳が空を捉える。
「ここには何も感じられないか。なら、どこに……」
 呟きは吹き込んで来た風によりどこぞへと流されていった。


 鎮められない感情のまま桂の足は走っていた。
 そしてすぐ後ろを追ってきている人間には気付いていなかった。
 どうにか勒宵はその手首をはっしと掴み引き戻すが、泣いてはいなかった。
「勒宵」
「……すまない」
「なぜ、勒宵が謝る」
 困ったように桂は笑う。
「八つ当たりなのは分かっている。だがあれだけでもあれば、母は、心細い想いなぞせずに済んでいたと思うてな」
 ぎこちなげに話すわけでもなく、その瞳もまた絶える事なく光が燈る。
「六年だ。六年も行方知れずだった上に、郷の近くまで来ておいてそしらぬ顔でまたどこぞへと行ってしまう。そんな夫、そんな父親だ……もしや、朔も持っているのか?」
「ああ。同じ時に賜ったからな」
「そうか……ならば本当に八つ当たりだったな」
「八つ当たりはお互い様だ」
 木立ちの影から、又兵が幡治を伴って現れた。
「……又、幡治。よく追いついたな」
「まあな。こいつをつければなんのことはないさ」
 又兵が見上げた頭上には、桂の“桧樋”が浮遊していた。
「桧樋」
「すまなかった」
「幡治……お互いな。くだらない八つ当たり合戦をしている場合ではなかった」
「ったりめぇだよ。短気っつーか思い込むと激しいんだな、お前ら。しかも八つ当たり屋。意外な共通点だな」
 又兵の和みを素直に聞いている暇なく、まず勒宵が汐畝の不在に気付いた。
「汐畝は?」
「あいつならちょっと匂うとかって通りに出てるぜ」
「何かいるのか?」
「行こう」
 躍り出た正面、そこに立つ汐畝の肩越し、五重塔のまたさらにはるか向こうに太い黒煙が見える。
「汐畝?」
「あれは……火事か」
「そっちよりも──」
 汐畝が言いかけた時、さらにまた火の手上がった。
 轟々と音が聞こえて来るような気さえするほどに、季節柄の空気乾きもあってか勢いを持っていた。


 栄華を誇るまほろばの都だが、そこは地獄絵図さながらとなっていた。
 火を消そうとする者、焼け出された者、次から次へと上がる火の手。そして救護する者、逃げる者、泣き喚き、怒鳴り散らす者。
 役人が駆け付けても、その惨状に慌てふためき役に立たない始末だった。
 もちろん事態の収拾に桂らが手を貸したことは言うまでもない。
 その最中、桂達は黒煙と炎の燻りのあちら側に幾かの影を見た。
 煙や炎を払い分け見てももうそこにはいなかったが、五人ははっきりとその気配が在ることを感じ取っていた。
 一所の目処が立ち、去り際辻の向こうで悲鳴が響く。
 我先にと駆け出すと、そこには黒い煙幕を纏ったようなものが人めがけて飛び掛かるところであった。
「影」
 襲いかかったそれは、女性の肩を食いちぎった。
「おのれ!」
「桂!」
「くそっ」
 桂に幡治と又兵が続く。
 影に向け翳した桂の手が、直後制された。
「見せるな。騒ぎになる」
 日が傾き出したとはいえ、この騒動でどこもかしこも浮ついた人々が通り交い、今とて数人の町人がその様を目撃していた。
「幡治」
 咎めるように言ったが、すでに幡治も又兵も動いていた。
「こっちだ」
 もののふの目が示したのは、視界に緑が現れる山の方角。
「又!」
「ああ、こっちだ、ぜっ」
 影を掠めるように飛び刃を投げ、又兵は挑発する。
「駄目だ、どれもこと切れている」
 襲われた人々の様子を見ていた汐畝は勒宵に告げた。
 勒宵は頷くと、迷いもなく剣を突き立てる。
「すまない」
 音を立てて刃は抜き取られ、元の鞘に収まった。
「まだ気配がする」
 引き付けている又兵や桂達の後に続いた。
 一方で又兵の挑発に乗ったかに見えた影だったが、その動きは逆手にこちらを翻弄しようとしていた。
「都にも獣は出るものなのか」
「馬鹿を言うな」
 四つん這い、見れば大型の狼なのか有蹄の大物なのかは判別がつきにくい格好で俊敏に動く。
 蹄のような脚が地面を蹴るのが聞こえると、大路の塀の上に上がり、速さをつけて影は飛び向かって来た。
「まだ早ぇんだよっ」
 再び又兵が飛び刃を投げると、それを避けて鋭く方向を変えた。すぐさま今度は後ろ脚を蹴って反対側の塀に上った。影が脚を蹴る度に、土塀に乗る甍が鳴いた。
 いくら影とはいえ、さすがに都大路で衆目に力を晒すのは憚られ人目ない場所までと思ったのだが、思惑通りにはさせてくれないようだ。
 影の走りは都の中心を目指そうとしていた。
「埒が明かない」
「朱雀大路に出られるとまずいな。桂」
「承知!」
 左右正面一気に三人は飛び掛かる。
 しかし、その輪郭は突如として消えた。
「影は?!」
「どこだ?!」
 通りそこここと見回すが見当たらない。
 焦りか桂の胸は早鐘のごとく脈を打った。気配を探ることに集中するほど冷静になると、それは逃がしたことではなく、何かに迫られる焦りであるように思えて来た。
「おかしくないか」
 汐畝が言う。その目は鋭く辺りに向けられていた。
「人の気配や気の流れよりも、何かがそれに勝ろうとしている」
 ひやりとして動かなくなった空気が、緊張を張り巡らせる。
 土踏みの音が聞こえた。
 振り返り見た辻の真ん中に、一人の男が立っていた。



 
 
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