『式師戦記 真夜伝』
 
  第十五話 影が見せた幻影
   
 真夜を追いかけてきた影は、見るごとにスピードを上げていた。
 「やっぱり“一式”を狙ってる……?」
  真夜自身、正直体が辛くなってきた。
  小将二人に力を送り、山の中を全力で影を引きつけ走っているのだから、当然そうなる。
  走るだけでは体力消耗で済むが、ここで言う“力を送る”とは、体力と精神力の両方を削ることをいう。
  けれど真夜はそんな状態の中一気に加速し、一瞬影を引き離して振り返った。
  その手には、“一式の一星”と呼ばれる手組みがされていた。
 「これを使うんだから、観念してよね」
  卯木や仂への力の送出を止め、体を引き構える。
  そして構えから一歩踏んだが、遅かった。
  一歩踏むと同時か紙一重早く、真夜の目の前に暗闇が開いていた。
  声も、いや息を吸う間も与えられず、真夜の体は影の内に融けていた。
 
 
  影の痕が消えていく頃、鎮破は倒れている玲祈を見つけた。
  そしてそれを守るかのような小将達の姿も。
  最初に八ツ森が近付く足音に気付いた。
 「……五式の鎮破様。それに──奉家の方々まで」
  鎮破は八ツ森には目もくれず、倒れている玲祈をただ怪訝そうに見据えていた。
  鶴史が気付いて八ツ森に問うた。
 「どうしたんだ?!」
 「影に……取り込まれて」
 「やはり無茶をなさったんですわね」
 「真夜は」
  つんとした千冬の言葉のあとに、鎮破もようやく口を開いた。
 「今し方……山の奥へと」
  俯いたままの卯木が低く鎮破に答える。
  それを聞いた鶴史の舌打ちが、その場にいる者すべてに聞こえた。
 「あいつは……」
 「お前達小将は玲祈を見ていろ」
  そのまま、また痕を追ってさらに鎮破は奥にその足を向けた。
 
 
  ──ん、光り……?
  ──あ……れ……?
 「これ……どこだっけ?」
  自分はいま、何をしていたのだっただろうか。
  そもそもここは?いまはいつだろう……。
  自分は……誰……?
  閉ざされた瞼が、舞台の幕のように上がってゆくと、映ったのは白い世界。
  いや、そう見えているだけのようだ。
  目が眩んでいたのか、光にまだ目がなれていないのか分からなかったけれど、自然に視界のコントラストが変わってきた。
  それ見間違うことのない、あの秋の空だった。
  なぁんだ……いつもの夢か……。
  そう思いながら、おもむろに少し視線を下に移すとやはりそこには、忘れることのない光景が待っていた。
  爺やが、佐伯の父が死んだ日……否、私が殺した日。
  あの時。
  そう、──爺やは私が殺した。
  この光景そのままのあの、十三年前。
  一式家当主になりたての父様とおじい様にその前夜、私は呼ばれた。
  父様の背に鈍く光を放っいる、あの証しの玉のある奥座敷に……。
 
 
 
 
 ***
 
 「……」
  幼かった私は、おじい様と父様のその言葉が、始めは分からなかった。
  ──佐伯乙八を、己が手で葬ってやれ……式家が一、一式の式師として。
  それが私の、式師としての最初の“殺し”だった。
 「なっ……」
  言葉が分かって、なんでと問おうとしても、そのあとが続かない。
  つい昨年、乙八の妻・誠子が亡くなったことを、真夜は知っていた。
  誠子はとても大きな兇を、祓師として祓った。
  それがどのようなもので、どのくらいの規模の誰のもので、どういう兇だったのか、事の詳細は未だに次代の式師達に伝えられてはいない。
  ただ祓った兇があまりに強大だったために、祓った代償にその禍々しい残光が、誠子を蝕みついに死にいたらしめた。
  今は佐伯乙八、ひいてはその息子や仕えているこの一式の家一族にまで、その触手が向けられる。
  そこまで行く前に、自らここを離れ命を絶ち、息子や一式にあだなす火種を消そうとして真夜の祖父に暇を請うたが、禾衛門は許さなかった。
  そして真夜に、この任をまかせた。
  何かを言おうと思えば思うほどに、真夜は逆に何も言葉を口にする事ができなかった。
  五つという小さな時分に、真夜はすでに人として、言い表しがたい気持ちを持たされてしまった。
  体が心から震える思いだった。震えるあまりに今にも自分が無くなってしまうような思いを抱えて寝床に入り、朝まで眠ることができないと思った。
  しかし5歳の真夜の体は、眠気には勝てなかった。
 「──様。……やさま。真夜様」
  遠くに呼ぶ声を聞きながら、肩を軽く叩かれた。
 「爺やぁ……?」
  眠気まなこを擦りながら、幼き真夜は寝床から起き上がった。
  なんだか悪い夢を見た嫌な心地を感じながら、自分を起こしに来た者の顔に視線をあげる。
  紛れもなくその顔は、毎朝自分を眠りの底から安心して迎えてくれる笑顔だった。
  けれどその者を確認した途端、来てはいけなかった日が現実として、幼かった真夜に突き刺さった。
 「どーして起こしちゃったの!」
  突然の剣幕にも関わらず、戸惑いもせず乙八は小さな手から投げられた枕を受け止めた。
 「朝だからです。さぁ、お母様が朝ご飯をご用意されていましたよ」
  今日はこのお洋服をお召しになってください。
  こう言って、いつも通り真夜の母が整えて置いていった服を広げて見せてから、すばやく真夜を着替えさせた。
  食卓を囲む部屋でも、なんら変わりない、みんな普段の通りだった。
  十二になった兄の臣彦も、昨年から一緒に暮らすようになった同い年の咲も、まだ若さが残る両親も、そして祖母を亡くしたばかりの真夜の祖父も。
  みんなみんな、普段通りの一日の始まりだった。
  当の佐伯乙八すら、いつもの笑顔を絶やさなかった。
  五十も過ぎたシワの深くなりつつあるその顔で。
 「真夜、食べないの?」
  母親が、沈んでいて箸をつけようとしない5歳の娘に尋ねた。
  やっと気付いたかのように真夜は朝食を食べ始めるが、それでもあまり箸は進まなかった。
 「ごちそう……さま」
  真夜だけがやはり沈んでいた。
  朝食を食べ終わると縁側へ行き、足をブラブラさせているのをただ見ているだけだった。
  いずれはぶち当たる壁だった。ただそれが、少し早めに来ただけの話。
  幼い真夜はずっと、何も考えずにただ足をブラつかせているのを見ていた。
  まだあどけないその瞳と、妙に締まった口許は、5歳という年齢にはあまりにもアンバランスだった。
  ついにその時が来ることを告げる足音が、ギシギシと近付いて来た。
 「真夜。座敷へ来なさい」
  弾かれたように稚い眼が見上げた顔は、やはりまだ若さが残る険しい表情の父だった。
 
 「式が一の星、封解」
  黙って座る真夜の力は、こうして放たれた。
  握る手の中は汗ばみ、迫り来る恐怖。
  それが最高潮に達しようとした時、奥座敷の庭に乙八が姿を表した。
 「御前様」
  深々と頭を下げる乙八に、真夜の祖父は一つ頷くだけだった。
 「爺や!」
  すぐさま裸足で庭へ降りて真夜はしがみついた。
 「やだよぉ……まやっ、まやっ」
  乙八のズボンをシワがつくぐらい掴みながら、すでにその瞳からは大粒の涙が限りなく流れ落ち、肩をしゃくりあげていた。
 「真夜」
  背に降りかかった淡々とした声に、口をぎゅっと結んだが涙は頬を濡らし続けていた。
  そんな真夜を抱きしめ頭を撫で、乙八は言った。
 「─―なにとぞ気を咎めませぬように」
  真夜の手がゆっくり乙八の左胸の高さまで上げられ、次の瞬間には刹那の余韻が辺りを覆っていた。
  小さかった真夜は気付かなかった。
  抱きしめた際彼は正座になって、最期の姿も恥を晒さぬように気が配られていたことには。
 
 ***
 
  
  
  
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