『式師戦記 真夜伝』

 
 第二十三話 思い知る想い
  

 黒札──式家が代々記録を残している書物に、幾度か名が出て来る。
 ただ黒いだけの札に見えるが、それは『影の目にして耳であり、影そのものとも言えうる』という一節が残されていた。
 式師となるべき者は、幼い頃よりこう教え仕込まれていた。
「黒い札に遭いし時は、すぐに封じを唱えよ」と。

 念のために惟揺いようを残して、丘のさらに奥へと駆けて行く。
 外は日が沈みかけ、後ろからは同じシルエットの影法師が追いかけて来る。
「気配が残ってる」
 まるで一本のレールの様に、気配が軌跡を描いている。フラフラしてはいるが、朱玉を預けた稲荷の林にまっすぐ向かっていた。
 しかし気配は一体だけのものではないように思えた。時々一本の気配がブレて見える。
 大きな三つ編みの一房を振り乱して棗は駆けていく。 (恭世っ──恭世!)
──は。
「黒札が出たわ。気をつけて。今は様子はどう?」
──それが。
 少年はただ突っ立っているだけなのだという。影本体の気配の極端な現れもなく、静かだと。
 変に拍子抜けしながら、その稲荷のある林の手前の角を曲がった。
 すぐに小さな赤い鳥居が視界に入ってくる。住宅街の一角にありながら、しばらく手が入れられていないのだろう。小さな鳥居の赤は、ところどころが剥げて木材自体も朽ちかけていた。
 申し訳程度に造られた石段を上がると、高校生くらいの少年がこちらに背を向けて立っていた。恭世がそっと背後に降りて来る。
「……三浜太地君ね」
 彼の意識の有無を確かめる。
 それに応えてなのか、彼の体がこちらを向こうとした。
 その後ろ、稲荷の上に突如として空気と己の境界のない影が、姿の色を濃くして現れた。少年の背後に黒い穴が開いている。そう、真夜や玲祈を取り込む直前の状態……。これがその様だ。
 棗は動かなかった。なぜなら影も、動かないでいるからだった。
 彼をどうこうするでもなく、向かってくるでもない。数秒足らずだが、棗にはその間が異様なほど長く感じられ、心を鎮めて出方を待っていた。
 そんな時、フッと少年に憑いていた影の気配が解かれた。取り憑かれていた後遺症か、見た目の状態はさほど変わりなく、依然としてただ呆然と立っている。
(どういうこと……?)
 すぐ駆け寄って行きたいが、影が動かない間は彼女も動けなかった。
 距離にしろ、影が事を起こす気になれば棗は不利だ。
『影は己が心の鏡と思え』
 父の言葉が頭の中で繰り返される。
『影はこちらのどんなに小さな隙をも探り入ろうとしてくる。些細な心の揺らぎ、曇りこそが最大の隙。“気”にさえ面を被るよう心掛けを持て』
 棗は冷静そのものだった。黒札は気になるものの、影は鏡、影との戦いは己との戦い。
 口許を引き締め、まなざしを引き締め、背筋を伸ばして胸を張る。まっすぐに影を見据える。緑が、大気がにわかにざわめく。
 木の葉がおしゃべりをやめると、少年の体が傾いた。とっさだったが動く覚悟を決めて駆け出し、彼を支えた。
 それでも影は動かない。これ以上の無駄な睨み合いをする必要がないと判じた棗は、少年を支えまま一度後ろへと退く。
「恭世、茉。太地くんをお願い」
 棗は姿勢を整えて、再度影を見据える。
「目的は分からないけど、見逃してあげるわけにはいかないわ」
 辺りは暗くなりかけていたが、昼間の暑気がまだ残っていた。
 棗の右の掌は堅く握られ、左手がその手首を掴む。握った手にさらに力がこもる。
「流水の宴!」
 右の掌は開かれ、そのまま手はなぎ払われる。
 影は、棗の動きを見ていた。じっと己が眼に、棗を映し見ていた──はずだった。
「轢は援護をお願い!」
 それがいつのまにか、自分の脇へと来ていて、いつのまにか祠を隔てた後ろまで行っていた。見失ったわけでも、棗が消えていたわけでもない。
 いつのまにやら目の前を通り過ぎ遠ざかる、水に浮かんだ木の葉のごとき身のこなし──影がそんなことを本当に考えたかどうかは定かではないが、考えたなら──そういうことだった。
「あくまで動かないというなら、そうしているといいわ」
 するとどうしたことか、棗がそうして動く度に影が締め付けられていく。目では何かが巻ついているようには見えないが、見る間なく棗が二・三度影の周りを回るうちに、みるみる締め上げられていく。それでも身動きは一つとしてしない。
「声も出さないのね……消えなさい」
 元の位置に戻った彼女の右の掌が再び握られると、影に急激な圧力が襲う。
 いくらも経たないうちに、影の体が弾けた。細かく降り散る破片の中、棗は影の消えた地面を無機質な目で見下ろしていた。自然と大きな溜め息が出る。
「棗様……」
「大丈夫よ、轢」
 振り向いた彼女の目はいつもの穏やかなものに戻っていた。
「それより太地君は?」
「眠っています。それもかなり深く……」
 待った、と少年の腕に触れた恭世が言った。
「眠ってるだけじゃ済まない。体が冷えてきた。しかも猛スピードで」

──……ピルルルルル…ピルルルルル
 男は受話器を取った。
「はいはい。こちら睦夷むつい病院」
「ふざけてないで」
 女の静かな言葉に、男は口許に不敵な笑みを浮かべた。
「患者かな?」
「急いで迎えを寄越して。高校生の男の子が取り憑かれた後遺症なのか、体温が低下して来てるの」
「……今日は千客万来だな」
「え?」


「……えぇ、睦夷病院です」
 棗は電話を切った。三浜太地少年の両親に、連絡をつけていたのだ。
「無理はしないように、釘をさしたはずだったんだけど……」
「や、しばらく」
 呟きながら廊下を戻ろうとした角で、白衣を着た男が顔を出した。
「そうね、お久しぶり」
「なんだなんだツレない顔して」
 男の軽口を、棗は無視して話を進めた。
「……鎮破と玲祈は?」
「五式のぼっちゃんは起きてる。3階の奥の部屋だ。ま、派手にやらかしたようだな」
 ちょうどエレベーターが見えてきた。
 上行きのボタンを押して待っていたが、男は一向に立ち去る気配をみせない。エレベーターが来てもそのまま一緒について来る。動き出した密室で、棗の体は少しこわ張っていた。
「……どこまでついて来るつもり?」
「久しぶりに会ったのに、ほんとツレないなぁ」
「睦夷の跡取りさんがこんなところをウロチョロしてていいの?」
 体のこわ張りとは裏腹に冷静に切り返す。
「一緒に上まで来るぐらいいいだろ。どうせ俺も一番上に用があるんだ」
 ポーンと音が鳴り、ドアが開く。棗は外に出て後ろを振り返る。ドアが閉まりゆく中で、男はひらひらと手を振っていた。
 しかしまさかこんなことにまでなっているとは、さすがに何か苦々しいものを感じていた。
「“月破刀げっぱとう”まで出して来なきゃならないなんて」
 声に、部屋の主はこちらを向いた。
「心配をかけました」
 静かで低い声。鎮破はおとなしくベッドに寄り掛かり座っていた。
「珍しい。鎮破からそんな言葉を聞くなんて。……釘をさしておいたからかしら?」
「用心のために持って行ったはずが、本当に使うはめになるとは俺も思ってませんでした」
「玲祈は?」
「隣りで寝ています。火遁の奥義を出して、ひどく体力を消耗したらしく」
「一応病み上がりだもの。真夜ほどではないにしろ、無理ないわ」
 鎮破はあの影を切り裂いた刀、月光破影の剣を手にし、その握った手にいっそう力を込めた。
「でも良かった。ここに運ばれたのを聞いて、背筋が凍ったわよ。……私の方で、黒札が出たわ」
 驚いて鎮破は棗を見返した。棗はポケットから布にくるんだそれを取り出し、包んでいた布を開く。
「これが……」
 現れた漆黒なまでの札に、鎮破は気をとがらせた。
「依頼人の息子さんの部屋の窓に貼られていた。息子さんは三浜太地君、16歳。影に取り憑かれた後深く眠ったまま、体温の低下が激しくてここに連れて来たの」
「影は?」
 棗は目を閉じてしばし沈黙した。
「一体は倒したわ。……けど」
 棗は今回の件を詳細に話し始めたが、口から言葉が出るごとに鎮破の空気がより研ぎ澄まされていくのを、彼女はつぶさに感じていた。
「……鎮破」
 鎮破はふいに名を呼ばれ、問い返すように棗を見返した。
 棗は真っ直ぐ、彼の眼を捉えていた。
「昨日私が言った言葉、忘れてないわよね。私の父と母は、15年前のあの事で命を落とした。あの事があったからこそ、無理はするなと言ったはずよ」
 俺は、と何かを言いかけたが、棗の言葉には勝てなかった。
──己に勝てなければ影になど勝てない。次代の式師の中では年長となるのだから、なおさら気を緩めるな。それが口癖だった。己に負ける事のなかった父は、それでも影の前に倒れた。


 
 

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