『式師戦記 真夜伝』

 
 第二十七話 流れる日
  

 棗の心の一隅は、苦痛に満ちていた。顔には表さずともその痛々しい様に、未だ小将達は慣れない。
 他人に見て取れるギリギリの表情、それはいつも彼女を二つに分けていた。
 相手は感じる事が出来るのかは分からないが、彼らの体を苦しめている事に変わりはない。
 例え一瞬の終わりに頼ったからと言っても、それは変わらない。
「さて、行くかな」
 あっさり言える自分が愚かに見える。“外”から見える自分は、汚く見える。
「棗様。二式のお嬢様がお見えになりました」
 彼女はぽつんと、玄関先に立っていた。
「裟摩子がウチに来るなんて久しぶりね。どうぞ上がって?」
「はい」
 最近特に暗く悩んだ様子を棗も気にかけないでいたわけではなかった。内心尋ねて来てくれたことを、むしろ好都合と喜んでいた。
 部屋に案内する間、放っておいたらすぐにでも立ち止まってしまいそうな裟摩子を棗は幾度も笑顔で振り返り、促した。
 式師の中では最年長と最年少にあたる二人。棗にしてみれば、真夜も裟摩子も本当の妹のように思っているのが本音だった。五人の中では小さいながらに、頑張って全てをこなそうとする裟摩子の姿は、そんな棗には痛々しかった。
「すみません。私、役に立てなくて……」
 消え入りそうな声で、裟摩子は言った。泣いているのかと思うほどに、彼女は俯いていた。
「真夜ちゃんがあんな事になっていたり、鎮破さんや玲祈君や棗さんまで大変な事があったのに……何も出来なくて。いつもいつも、みなさんに──」
「この前私達で集まった時、私と鎮破、それに真夜や玲祈は、裟摩子を責めた?」
 裟摩子は顔を上げ、そして首を横に振った。いつも裟摩子には、棗の穏やかな笑顔が眩しかった。
「私が裟摩子くらいの時は大変だったわ。ウチは上がいなかったから、周りの大人たちに助けられながらも鎮破と私の二人だけで多くの事をやっていた。真夜は一式として、それなりに育てられてたけど、三人とももう少し時間が要ったの。ようやく裟摩子も加わって、今回の式師が五人揃って影に対する事が出来るようになって、鎮破も私もずいぶん心強くなれたの。出来なきゃ出来ないで良い。裟摩子が出来る事だけで、今はいいのよ。嫌でも出来るようになる日が来るんだから──」
 うなだれた裟摩子と目線を合わせるように、椅子から降りて彼女の小さな両肩に手を置いた。もう一度顔を上げて見た棗の顔は、眩しかった。
 真夜も、玲祈も鎮破も、裟摩子にとっては誰もが眩しい存在だった。
「はい」
 とだけ頷いただけだったが、裟摩子は胸の内で一人悔しさをかみ締めていた。
 己の無力と幼さに。
 15年前、棗も同じようにかみ締めた悔しさを、今は目の前の裟摩子が抱えているように思える。


 今宵もまた、一つの影を葬りに行く。
 一連のことがあってから日増しにとは言わないものの、依頼の数もタチの悪さも以前と比べれば増していた。
 今日の獲物は影型。影型は人に取り憑けはしないが、人を取り込む他に人の影に入り込み操ることや、一応自ら人の形をとることが出来た。最初は影がその人間に化けていた。
 それはその人間のほんの些細な思念だった。
「アイツなんかいなくなればいい」
 影は面倒になり人間本体の影に入り込み、彼に取って代わって“彼”を支配した。
「アイツがいなければ、オレが。アイツよりオレの方が上のはずなんだ。アイツよりオレの方が──」
 彼の、彼自身の意識はそこで途切れた。彼はいわゆる育つ過程で“天才”と呼ばれた、エリートエンジニアだった。それなりな学歴、大学を出てそれなりな学位や資格・技術を持ち、あらゆる賞讃を得て来た。
 彼にないものはなかった。ただ一つ、“挫折”というものを除いては……。
 幾度めかのある重大なプロジェクトで、核となるものにいつも通り彼のアイディアが採用され、彼が指揮を執るものだと思われていた。
 だが最終選考が終わり、蓋を開けて見ると彼より年下で経験や学歴も劣る人間のアイディアが採られた。
 たまたま今回はその人間のアイディアが採用されただけ……。彼がそう思えることはなかった。
 じわじわと沸き上がる妬みの感情。抑えることが出来ないのではなく抑えようともしない、その負の感情が、影を無意識に呼び寄せていた。

 誰かが呼んでいる──。
 誰だろうか。呼ばれている名前は誰のことだっただろう。

 ひっそりと明かりが消されたとある企業の高層ビル。
 比較的小柄な男が、意気込んで仕事をしていた。
 ふと、背後に人の気配を感じて振り返ると、見慣れた同僚が立っていた。
「なんだ、西原先輩じゃないですか。脅かさないでくださいよ。はぁあ、それにしてもプロジェクトの指揮ってのは本当に大変ですね。いつもどうやって先輩は切り抜けて来たんですか? 初めての俺はどうやっていけばいいか不安で。先輩?」
 返事がないので手を休めてまた振り返ると、薄暗い部屋で唯一ギラリと光るものが自分に迫っていた。
 そして翌朝、何気なくテレビを付けた会社の人間は、ニュースを見て驚く。
 紛れもなく、自分が今から出勤するはずの会社がデカデカと映っていた。朝一番に出社した同じ部署の人間が、その机だけデスクライトが点いているのを見つけた。机の主が大方消し忘れて帰ったのだろうと考え、消すために机に近付いた。すると、その机の主本人が胸に刃物を突き刺された状態で床に倒れていのを発見したのだという。
 被害者の名前は秋場聡、入社3年目の25歳。数日前に所属の部署の次のプロジェクト案に大抜擢された人物だった。
 すぐに一人の同僚が容疑者として浮かび上がった。
 だが彼には動機があってアリバイはなくとも、決定的な証拠がなく幾日も経たぬうちに釈放され、秋場聡の開けた穴を埋めるようにプロジェクトの指揮を任されることとなった。
 彼は、笑った。鋭利に欠けた三日月のような口の端で。

 誰かが呼んでいる──。
 誰だろうか。呼ばれている名前は誰のことだっただろう。

 ビルの合間に吹く風は、夏の夜の生暖かさを運んで来る。
 その風に押されて、棗は目の前のビルを見上げた。見据える先にはただ一つ、明かりの点く部屋があった。依頼者は壮年の婦人で、名は西原肇子と言った。
 ここ何年か息子の様子に違和感を覚えていたが、数週間前からは特に奇妙な行動が目立ち、心配の末依頼して来たという。調査の結果は、重かった。
スリガラスに映る長い髪をたなびかせたスラリとした影は、一つだけ明かりの漏れる部屋の前までゆっくりと歩いて来た。僅かに開いたドアを押すと、蝶番いが音を立てる。
「ダレダ……」
「倒す相手に名乗る名前を持ち合わせてはいないわ。西原孝行さん、と入れ替わった影の方ね、あなた」
 黒い炎のようなシルエットが近付いて来る。
「ワレヲヨブハオマエカ」
「いいえ。でも、呼ばれているのはアナタじゃないわ」
 棗も同じように前へと進む。しかしある距離で双方は互いに歩みを止めた。
「もうどちらだか、自分でも分からなくなっている様ね。西原孝行さんなのか、影なのか」
ガ……──グガ……グワァアアアア
「恭世!」
 飛び掛かられる前に棗が言うと、元いた場所には恭世が現れ、棗は別の場所に移動していた。すでに構えを取っている。
「流禍《りゅうか》!」
 唱えた直後、西原孝行の体を乗っ取った影の周りに、吹き上げる様な水流が壁を作った。
 飛び掛かろうとしていた影は、水の壁に阻まれ押し返された。影はあの手この手で攻撃を加えるが、びくともしない。
「一、途たるは、二に沈み。三に溺るるを、四、炎獄へと、五に召されん。汝、彼者あらざる者なり」
 手を合わせ紡ぐ言葉は影を締め付け、縛り、苦しめた。影の体から黒い蒸気が出てくる。それは徐々に濃く、密になっていく。
「ワレハカノモノ カノモノハワレナリ」
「……どうしても、行言《マナト》でさえ離れてはくれない様ね」
 行言はあらゆる場合に使われる鍵の様な言葉で、それによっては体に宿った影を引き離す事の他、一時的に休眠させたりや力を封じるなど、または属性を見破る場合にも用いられる。
「ここじゃカタをつけるのには不都合ね」
 影を閉じ込めていた水の壁を消した棗は、別人のような妖艶とした顔つきをしていた。茉・恭世・惟揺の三人の小将も、どこか鋭い気を放って傍らで指示を待った。
「来なさい」
 棗の一言で、影はすぐさま一直線に飛び掛かってきた。だがヒラリと躱され、窓ガラスに突っ込んで外へと飛び出した。粉々に割れるガラスの中、棗も追って外に出る。
 壁伝いに一足飛びで屋上に上ると、影も追って登って来た。
 人型ではあったそれは、今は元の体の原形すらとどめていない。
「ここなら、少しはマシね」
 落ち着くまもなく、すごいスピードで迫り来る影の手は、斧の様に変形した。振りかぶるその手を恭世が止める。
「棗様、早く!」
「流禍!」
 恭世が離れるとともに水の壁が影の四方を塞ぐ。
 行言で人の体から離れないという事は、すでに境界をなくしている証拠。もう“人”とは呼べない。
「三式棗、彼者に遥かな眠りへの旅を捧げん。宴舞、竜神!」
 棗が高く翳した手より、荒れ狂う一筋の水流が現れた。流れはうねりを増し、竜のように荒々しい動きを見せ、そのまま影の心臓部に突き刺さった。
 水の壁に阻まれてだろう、何かを叫んでいるのだが掻き消されていた。


 
 

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