『式師戦記 真夜伝』
第三十二話 絡み合う糸
受話器を握る手に無意識に力が入る。
棗の喉が小さく鳴った。
「出たのね、ついに」
「おそらくは──議論に決着が付いたわけではありませんが」
「そうね。気をつけるわ」
「俺はしばらく単独で動き回ります。本当に知能をもって意思で動いているのか、もう少し動向を見極めたいので」
「真夜たちのバックアップには私が回ればいいわね」
「お願いします。例の件もありますので」
「鞠ちゃんからの……伝言ね」
「それじゃあ」
電話は切れた。
いつの間にか胸に手が掛かる。
真夜が“成りし瑠璃”を手にしたと言う。三式からも祝いを出したが、今後の状況によっては四式はもとより、二式の裟摩子や奉家も成りし瑠璃の授受を繰り上げなければならなくなる。
他は分からないが裟摩子には負担にならないだろうか。真夜にしても手に入れたからには、止めても動く。もう現状把握にまで回り出している。
しっかりしなくちゃ。
「ふ……ん。まだやるんだ」
通り掛かった扉、その隙間の向こうから冷ややかな声が追い討ちをかけるように聞こえて来た。
「詩帆」
「あんたなんか……許されないんだから」
吐き捨てられた言葉は、扉の閉まる音ともに棗の心に突き刺さる。
浮かぶのは大切な二つの顔。彼らはどうしているだろう。幸せであって欲しい。ただそれだけだ。
「いいよ、許されなくても。許さなくていい……」
足早に部屋に駆け込む。胸が詰まる。何もかもに胸が詰まりすぎて、倒れそうになったこともある。
でも倒れるわけにはいかない。まだ、倒れるわけにはいかない。私はまだ何も出来ていない。
しっかりしなくちゃ。
夏の薄いカーディガンを引っ掛けて棗は暑い日差しの中に出ていった。
液晶の画面に太陽が反射する。あまり見ていたくない相手先とその番号を睨み付けて、通話ボタンを押した。
たぶん、いま間違いなく嫌な人物が出る。
「はぁい。こちら睦夷びょ──」
「これは個人の携帯番号じゃなかったかしら? からかって遊ばないで」
「可愛い声を出さなくても番号が出てるから分かっているよ。わざわざそっちから電話してくるなんて、俺に頼みごとでしょうか?」
「……ちょっと部屋を貸してもらえない?」
「いいですよ。お姫様のご要望なら何なりとっ──」
通話切れのブザーも鳴らないうちに棗はバッグにしまい込んだ。わずかに見上げて彼女は宙に囁く。
「睦夷の家に来るよう、是謳《ぜう》に伝えて」
宙のどこかで答えがあった。
びっくりした。ただそれだけが一番最初に感じたことだった。
まさか自分を尋ねて来てくれるとは思いもよらなかった。
「お邪魔しますわ」
「千冬さん?」
見つめる顔が間抜けに見えたのだろうか。彼女の眉間は、愛らしい顔に似合わない皺を寄せている。
縁側でいいと言われて並んで座った。
「本当に、トロいわ」
「……はい」
「まだ“滅・殺”は数えるほどらしいわね」
「ええ……。私が至らないばかりに」
「なんでそうなるんですの」
そう言われて、俯き気味だった裟摩子は答えに窮した。なぜと言われてもそうとしか答えられない。
「だからトロいんだわ。自分が至らないのは当たり前じゃない。まだ中学生ですのよ? 私たち。そんなこと言ってたら何も出来ないわ。かく言う私も、五十歩百歩なんだから」
勝ち気な口調の中に裟摩子は自分と同じ何かを感じた気がする。毅然とした背筋が徐々に傾いた。
「遊馬はまだ実戦に出てないから、それを考えると私が一番弱輩者になるんだわ。他の方々からすれば経験だって断然見劣りしますもの。けどなんですの。そんなこと言ってられないですわ」
千冬はつんと顔を背けた。話の始めは何が言いたいのか、よく分からなかったけれど。
「はい……」
最後には、千冬も同じ気持ちなのではないかと思えて来た。
気がつくと千冬は縁側の突き当たりを見ていた。正確には、突き当たりにある角を凝視している。
ひょこんと出て来たのは弟の頭だった。
「康隆」
「おきゃくさん?」
「……ご挨拶しなさい?」
わずかに微笑み促すと、弾かれるように、まろぶように出て来た。
「噂の弟さんですわね」
「こんにちは。ぼく、二式やすたかです」
「十奉の千冬さんよ」
「確か、九奉の遊馬より三つ下よね。はじめまして」
ゆっくりとだが歩み寄って来た小さな少年に、千冬は手を差し出した。
「えっと、よろしくおねがいしますっ」
えへへと照れながらも握り返された手は温かく、小さかった。
裟摩子はその手の小ささに自分を重ねて見ていた。
帰り際ただ返事ばかりをしていることに怒られたが、なんだか気が楽になっていて裟摩子は久しぶりに笑った。
「また来るわ」
ぶっきらぼうに言って早々帰って行くのを見送る裟摩子は、なんだかとても嬉しくなってしまった。
千冬の乗った車が門から滑り出るのを見届けて、入れ違いに門を潜り入って来た人影を見つける。
年は二十歳前後だろうその女性には、しばらくぶりに会ったはずであるのに、極最近どこかで会った既視感を覚えた。
「久しぶりだね。元気そうだ」
男はにこやかに現れた。
「わざわざこんなところに呼んでどうしたの?」
「聞かせて欲しくて。今後の方向性を……ね」
「……」
棗とはあまり年が離れていないようなその青年は、笑顔をあらぬ方に向けていた。
「私にも知る権利も……義務もあるわ」
真っ直ぐに据えられた双黒の眼にさえ、青年はしばし迷っていた。迷った末、息を吐き出すように口を開いた。
「…………おそらく、確実にこの一か月の間のどこかで山がある。久しぶりの山がね。そしてそれは我々に、流れを変える大きな力を与えるだろう。そんなとこかな」
ちらりと彼は苦笑して見せた。
だがすぐ表情を引っ込めて目を合わせる。どちらともなく静寂の空気が部屋を満たしていった。
「詩帆ちゃんは? 元気?」
「相変わらず。……そっちは?」
「こっちも……まあ相変わらず。あんな感じで良かったのかい?」
「それ以上は分からないからあれ以上言わなかったんでしょ?」
「正確なところはね」
手を広げて肩を竦める。いつになく力なく見えるのは気のせいなのか。もしかすればお互い様なのかもしれない。
そんな独特の、その流れの中の二人にしか出し得ない雰囲気をあの軽薄な声がぶち壊した。
「ごきげんようお二人さん。密会は終わったかい?」
「やあ、すまなかったね」
ソファ越しに青年が笑顔で振り返った。
「いや何。愛する人のためならこのくらい」
「……貸して頂いたのはお礼を言うわ。けど、まだお仕事中じゃなくて? 油を売ってて良いのかしら」
「あいにく所用で戻ったのさ」
不敵に覗き込む瞳に強張る顔がしっかりと映し出されているが、棗は目を背けていた。嫌悪すら感じる顔だが、匡悟はどこまでも見飽きる様子がなかった。
棗のソファの背もたれに手を置いたままけして動こうとはしない。
「それじゃあ僕はおいとまするよ」
立上がりながら青年は二人に言う。
「なら私も──」
「ちょっと用があるから先に出るよ」
さわやかな笑顔が、少し、皮肉にも見える。しかし意外にも匡悟の方があっさりソファを離れた。
「残念ながら僕も仕事があるんだ」
「私は帰りますっ」
無言で軽く二人を押し退け、棗はいち早く部屋を出て行った。
「……怒らせちゃったかな」
「良いですね」
取り出したたばこを口に咥えた匡悟は、その青年の表情にあやうくたばこを落としかけた。
切なく、何かに焦がれ抑え切れない顔。
「妬ける顔、してるねぇ。従兄くん」
「妬けるのは僕だよ。睦夷の跡取りさん」
オハコの軽口も真剣に斬り返されれば閉じてしまった。あれは今のここを見ている目ではなかった。
そう。
遠くそして何者よりも大切な愛し人よ。祈りはただ胸に秘められ、誰かに聞き届けられることはないけれど、人は祈らずにはいられない。
深く深く、何度も何度も。
二式の電話が鳴ったのはそれとほぼ同時刻だった。
休日ともあって、裟摩子自ら受話器を取った。凛として、けれど朗々とした声が放たれる。
「あ、裟摩子ちゃん?」
「暮さん、お久しぶりです。何かありましたでしょうか」
「そうなの。実は箕朝《みあさ》の駅前で、おそらくカタと思われる影が目撃されたの。お願い出来るかしら」
「……はい。大丈夫です、やれます」
ちんと小さく鳴って、受話器は定位置に戻る。
息を堪えて手を固く握りしめると、以前は鳩尾に鉛を落とされる心地がしたが、今はなぜか心が奮い立つ。
裟摩子は話声のする縁側に面した客間に戻るべく足を踏み出した。
「ぼくは? ぼくはだいじょうぶ?」
「診せてみて。……うん、大丈夫よ」
小さな手をふわりと包んで笑いかける女性は、裟摩子、ひいては近い未来、康隆の祓い師となる佐伯の人間だった。
様々な事由が重なり一式などの他の家と違って、二式は家付きで住み込むのではなく定期的に往診のように訪れては診てもらうという様子を取っていた。
「お仕事?」
「はい」
裟摩子は頷き側に座った。
「すぐに出かけなければならなくなってしまいました」
「じゃあ、急ぎましょうね」
女は裟摩子の手を両手で取ると、やや掲げながら口許で何事かを呟き、終わると閉じていた目を開いた。
「調子が良いようね。これなら大丈夫」
「すいません。わざわざ来て頂いたのに……あのっ」
「何? 何か聞きたいこと?」
裟摩子には一つ引っ掛かっていることがあった。
それを確かめるべく口を開いたが、彼女にとってはこれが尋ねることの精一杯の言葉だった。
「穂波さんは……ご兄弟とかいらっしゃいましたでしょうか」
「いいえ。あいにく一人っ子よ。それがどうかした?」
「いえ……」
存外あっさりと返されたので、裟摩子は杞憂としてその疑問を片付けてしまう。
それにしてもなぜそんな疑問が浮かんだのかさえ、疑わしく思えるその事に、この時まだ裟摩子は違和を感じなかった。
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