『式師戦記 真夜伝』

 
 第三十三話 空が乾き音立てる時
  

 乱立し高くそびえる鉄の建造物群。比べれば彼女はどんなにも小さく見えた。
 件《くだん》の場所を裟摩子は探し回ったが、およそ一週間半、日数にすれば十日ほど目撃は途絶えた。
 それでも時間の許す限り毎日のように勢力を尽くしていた。だが時間の経過は手にじわりと汗を握らせ、もう一人の自分の頭を抬《もた》げさせる。
 それと同時に思考の冷静な部分がおかしいと騒ぎだす。
「……なんなのでしょう」
 制服のまま徘徊していた裟摩子はスカートで手の汗を拭い、強張りかけた足に叱咤した。
 賑やかな表通りに時折出つつ、それでも影の好む裏通りや路地裏を中心に探し回った。
 そして見つけた。否、彼女が見つけられたのだ。
「待つんだお嬢ちゃん」
 その声は明らかにおかしい異様な声音をしていた。
 跳ねるように振り返った裟摩子には、いま目の前に立つ者の黒い臭気がはっきりと見えた。
 凶悪さがビリビリと痺れとして伝わって来る。
「ドウシタンダイ オジョウチャン」
 裟摩子は勇気をふり絞った。
「……人に、憑いたんですのね」
 その者の口角が鋭利に吊り上がる。
 視界にちらつく赤い物にハッとして見ると、ぽたりと落ちたそれは鮮やかな真紅の滴だった。


 真夜はその電話に、間抜けな第一声を上げた。
「へぇ!? 暮さん、その話本当?」
 電話越しながら真夜は肩を揺さぶり回している様だった。
「ええ。なんでも十日……くらい経ってもまだ尻尾が掴まんないとか」
「分かりました。こちらで様子を見に行ってみます」
 学校が始まってから久しぶりに早く家に着いていた真夜は、ほどなくして鳴り出した携帯を取るとそういうことだった。
 とりあえず着替え終わって部屋に入って来た咲はたまたまその最後のところを聞きかじった。
「何かあったの?」
「暮さんから。裟摩子が影を追いかけてるらしいんだけど、どうも尻尾を掴ませてくれないらしいって。このタイミングだから何かありそうでさ」
「……」
「咲?」
「ううん。いってらっしゃい、気をつけてね」
「分かってるよ。佐伯お願い!」
 どこからともなく、世話役はひょっこりと縁側から顔を出した。
「車を回して来ます」
 そう言うと屋敷の表の方へ走っていった。
 途中で二式に連絡をつけると、裟摩子は今日も出ていることを聞いた。箕朝の駅ロータリーで車から降りると真夜は辺りを見渡しながら裟摩子の携帯を鳴らした。
 呼び出し音は鳴るもいつまでも出ない。嫌な予感が真夜の胸を過ぎる。
 耳には遠くから近付いて来るサイレンが聞こえて来た。
 繁華街の中の路地裏には血溜りやら飛沫がそここことあり、辺りは凄惨で生々しい様相を落としていた。周囲には人だかり。レスキュー隊や警察の怒号も飛び交い、ひどい騒ぎだ。
「何があったの……?」
 通り魔だと言う者、暴力団の抗争やなんかだと言う者、ケンカ、殺人事件だという者……様々な憶測が口々から出たが、真夜はまだ漂ういつもの嫌な臭気の残り香に気付く。
 ただの事件ではない、明らかに影が介入している。
「現れたんだ……しかも白昼堂々っ」
 人垣を背に真夜は走り出していた。


 冷たいコンクリートに滴り落ちたものは間違いなく血だった。それは男の肩腕の袖をも黒く染め上げている。
 無意識に口を手の甲で塞ぐ。あるはずのない鉄の味を口の中に感じて、裟摩子は苦々しげに目を細めた。
「人を……殺したんですの……」
「コノモノノネガイヲ カナエタマデ」
「ど、して……」
「ヨワイニンゲンハ ワレラヲヨブ ネガッテイナクトモナ」
「誰も……誰も呼びませんわ! 私は、人間は弱い……こともあるけれど、本当は……本当は」
「オマエモ ヨワキニンゲンカ」
 男の、影の手が上がる。刃は裟摩子に向けて突き立てられた。
「……え、江麻!」
「はい!」
 叫ばれた名に愛らしい声が答える。妖精のように愛らしく可憐な小さな小将が、背に主を隠して立ちふさがった。
「お願い、江麻」
「おまかせください!」
 固く手を握り締めると、裟摩子は静かに息を吸う。
「『基本は、』束縛!」
 思いきり握り締めていた手を二つの腕を、裟摩子は力一杯広げる。
 押しつけられる様に、男はその場に固まった。言葉を、脳裏から必死に甦らせる。
「『カタは人間に憑くとスピードは格段に上がる』。だから──」
 男は──男に憑いた影はそれでも裟摩子の束縛を破ろうともがいた。
 たとえ二式とて成長途中の幼き式師。そのままなら時を待たずして破られるだろう。
 影もこれまでとは違った。単なる束縛におとなしくはしていなかった。破れる隙を見つけ、手にするナイフに力を込める。
「闇よ、光よ……影を包み込め!」
 差し出す手には溢れだす光の気。まるで朝霧のように仄かな紫を湛えて、影を包もうと生き物のように動きだす。影を捕らえたはずの瞬間、裟摩子の頬を白刃がかすめる。
 相打ちのようで、影の方が一枚上手だった。束縛で固まった男の体から半分ほど乗り出した影は、分かれた枝の如く体の一部に溶け合っている。
 頬を伝う滴りは温かく赤く、止めどなく流れ出していた。
「っ……」
「オワリカ」
 影が天に向けて手を挙げた。カタカタとどこかで鳴った後、何かが無数に飛んできたことだけは見えていた。
「サケッ」
 言われるがままに、磁石に引き寄せられるような勢いで、集まって来た鋭利に角張った石ころや鉄くずが裟摩子めがけ飛んで来た。
 スピードに乗ったそれらが容赦なく彼女の体を衣服ごと切り裂く。
「きゃあーっ!」
「裟摩子様!」
 江麻は必死に盾となろうとするも自分の小ささが返って仇となり、防ぎ切れない。
「っあ……ダメ……私だって」
 それでも裟摩子は痛みと執拗な襲撃に堪え、再び攻勢を試みる。
 一度盾として覆っていた手を怯みながらも差し出し、紫光の気を解き放った。
「包臥《ほうが》、一の鼓!」
 芳香満ちる如く光球となった気が影を包み、その輪郭を砂のように崩させる。
 決着は着いたかに見えた。ところが────。
「え?」
 見る間なくビルの谷間は闇の幕が覆おうとしていた。
 灰かぶりかのような色のコンクリートは、いまや墨が水を帯びたように斑ていく様を思い起こさせた。
 もがき奮い立てた気持ちが恐怖に似た威圧に足を取られる。
 だが墨溜まりを引き裂いた者がいた。
「ちょっと、私の可愛い裟摩子をいじめないでもらえる?」
 不機嫌な声とはうらはらに、同じ漆黒であるはずの髪が墨溜まりの中でさえ際立って艶めく。
「真夜ちゃん」
「だいじょぶ裟摩子?」
「ええ」
「おおっと。俺もいるんだけど、なっと」
 もう一つ降り立った人影があった。
「へへ」
「玲祈!」
「玲祈くん!」
「随分派手にやってくれたなぁ」
 シックな色合いに淡いアクセントのベスト。紛れもなくそれは制服姿の玲祈だった。
「ウーッス。大丈夫か裟摩子」
「はい」
「何よ、あんたまで出て来なくたって良かったのに」
「ツレないんだからさぁ」
「私と玲祈は援護よ、裟摩子。大丈夫、同じような手は食わないわ」
 真夜の目は確信に溢れていた。
「その通りだぜ。甲遁! 双甲四面張り!」
 亀甲の盾が広げられた両手、三人の前後左右、そして上下と球体のように塞ぐ。
「卯木! 仂! 拘束っ」
 翳した手から送り出される力の帯を、卯木と仂が素早く影に巻き付ける。
「裟摩子!」
「飛羽、舞鶴義!」
 鶴が羽を広げる様に、裟摩子が放つ力の気が玲祈の作った盾の中から手を伸ばす。
 崩れかかったまま墨溜まりに融け落ちた影がビクリと脈打った。むくむくと泡立つように、影が膨れ上がる。そして限界まできたのか、あっさり弾け飛んだ。
 ばらばらと辺りに残骸が降り散り、真夜は声を上げた。
「やったー裟摩子!」
 真夜が裟摩子に飛び付く。
「ま、真夜ちゃん」
「やるじゃん裟摩子」
 真夜の手を掴む甲に玲祈が拳をこつんとつける。
「裟摩子は背負い込み過ぎなのよ。あっのねぇあたしたちに助け求めたっていいんだから。ずっと気を詰めてたでしょ?」
「真夜ちゃん……」
 裟摩子は心の中に迷子にさせていたものに気付いた。包み込んでくれる温かさを少しくらい求めても、誰も自分を責めはしない。真夏に凍った雪が溶け始める。
 そこでなぜか自分を包む腕の隙間の先に、黒いものを見た気がした。
「ひっさしぶりにスカッとしたぁ。復帰しても白しかやってなくてさぁ飽きた飽きた、超飽きた」
「そういえばっ。大丈夫なのかよ真夜」
 玲祈は慌てて駆け寄るが、真夜の手が顔面を押し退ける。
「玲祈に心配されるほど落ちてないし」
「なんだよ顔押し退けることないだろ」
 彼が悪いわけではないのだが、その姿は弁解する浮気男さながらっぷりの哀れさを持ち合わせていた。
「さっ、行こ、裟摩子」
「置いてくことないだろ! 真夜ぁ」
「知らないわよ」
 ぷいっと小さな背を押して帰ろうとする真夜を、玲祈が転びかけながら追いかけた。
 晴れやかな陽の下で、一時だけ裟摩子は忘れていた。


 月明りが薄いレース越しに注ぐ。
 裟摩子には無視が出来なかった。確かに見たと言うには本当に一瞬で、気配も感じなかったので、言い出せなかった。けれどなぜだろうか。
 自分ではない自分がどこかの奥から、いけないと手を引く。それでも裟摩子は確信することも出来ないでいた。忘れたはずの無力感が再び押し寄せようと隙をうかがっている。
 ようやく騒ぎが収まり出した頃、早々に学校から帰って惨劇の跡に数輪の花を手向けて、胸騒ぎの真偽を確かめに歩き回った。
 何か痕跡はないか、気配の片端でもないかと焦りを募らせる中で、杞憂に終わって欲しいという気持ちも混在した。そうであれば自分の思い違いだ、ただの見間違いだと笑って片付けられる。
 一通り街のどこにもその可能性がないと目処がつきかけて、少女は詰めていた気が解けだしていた。
 郊外に続く道の端から、街中の喧騒から少し離れたところに宙を渡る送電線に目がいった。
 雨の日でもないのに、鉄塔から鉄塔へと繋がれたそれはパリパリと微かな音を立てていた。


 
 

式師戦記 真夜伝前へ 式師戦記 真夜伝 次へ式師戦記 真夜伝


  式真PROFILE  式真DIARY  式真BBS  式真COVER  式真TOP