『式師戦記 真夜伝』

 
 第三十四話 梵鐘、ゆく歳月を
  

 まどろみから引き戻される。
 毎回のことながら夢心地のあの白い世界は、人にとっての離れがたい安らぎの場所であり、自分にとって無力さを、絶望を叩き付ける地獄にさえも時に見える。
「始まってしまうんだね。……の戦いが」
 一時苦しそうに歪んだ表情は、やがて揺るぎない決意と覚悟に変わる。
 愛しい君よ。
 危険が迫っている。


 見上げた電線のパリパリという音が、少女には不吉をもたらす悪魔の囁きに聞こえた。
 その音ともに風上から僅かだが気配を感じ取る。裟摩子はまた新たに意を決して、気配の漂って来る方角に歩き出した。
 空の色が雲もないのに濁ってゆく。裟摩子は気配の元に近付いたことを確信して辺りを見渡していた。
 背中から当たっているはずの西日が陰ったのを見て咄嗟に振り向いた。目の前には黒いものが視界を塞ぐ。ギョロリと目を光らせ、節くれ立った体から爬虫類の様な鉤爪の生えた足と恐ろしく鋭く尖った五本の指を持つ手が伸び。頭は化け物そのままだった。
 裟摩子からすれば見上げるほど大きく、影にしてはやたら輪郭がはっきりつき、肉付きさえ見える。
「あ……あ、ぁ……」
 シャアと開いた口が、とてつもなく凶悪に映る。


 好きなアイスクリーム。のんびりウィンドウショッピング。マンガを立ち読みしたり、まだ残暑厳しいと言うのに出回り始めた秋物をそれとなく物色。ゲーセンで寄り道。
 外に出られると言うのはいいものだ。家に閉じこもっている間は、正直精神的に追い立てられる気持ちが疼いて、あの夢の中の心地に似ていた。
 戦利品と途中のコンビニで買った新作ソフトクリームを両手に、意気揚々と真夜は家路を歩いていた。
 甘い味が口の中に広がる。手に持つ袋が揺れるたびに顔がほくそ笑む。
 そんな時に鳴ったからこそ、携帯電話のベルは嫌な予感を煽った。
「もしもし?」
「大変真夜ちゃっ……! 影が……あ!──」
 すぐに電話はぷつりと途切れた。あれはまず間違いなく裟摩子だ。
 しかもどうやら走っている最中だったのだろう、ところどころ息を切らせていた。
 佐伯を呼ぶか否か迷ったがもう家はすぐそこ。真夜は影を追っている時同様に駆け出す。
「卯木!」
 卯木は返事をすると小さな体に風を受けながら、一直線に飛んでいった。
 今なら分かる。北西の方向、その先の空が季節には似つかわしくない色をし始めている。
 角の先に塀が見えた。こんな時、無駄に長いと感じるこの壁を恨めしく思う。
「ただいま!」
 門を駆け抜け玄関へと滑り込んだ真夜は、靴を脱ぎ捨て廊下を急いだ。
 縁側へと続く角の陰にある電話の前に、受話器を取る父親と傍らに立つ咲の姿が目の端に映った。
「あっ、真夜! ちょうど良かった、鎮破さんから電話よ」
 駆け寄る咲の言葉を聞いて、電話に飛びつく。すぐに取り次がれた受話器が父親から渡された。
「鎮破! 裟摩子がっ──」
「知っている、今見つけた。三式・四式には連絡しておく。そっちは奉家に連絡しておけ」
「……分かった」
 切られた受話器を置く直前、聞き捨てならない言葉が父親の口から零れた。
「来たか」
「ええ……」
「なに、父様も咲も。何か知ってたの……?」
 判鳴はゆっくりと真夜に向き直った。
「四式の娘から、何か近く大事になるだろうとな。回復途中だったお前には伏せていたが」
「咲」
「ごめん……」
 咲は黙って顔を俯けている。
 裟摩子は影と対峙している。否、正確には襲われている。しかも鎮破は嗅ぎ付けてもう動いている。猶予はない。
 真夜は唇を噛んだ。
「父様は奉家へ連絡をつけて。佐伯は?」
「佐伯さんなら今出かけてて」
「なら咲、父様。後はお願いします」
 真夜は廊下に放り出したままの荷物に目もくれず、一式の屋敷を飛び出していった。
「っ、もう。こないだやっつけたばっかだっていうのに」
 道急ぐ車や歩く人と何度もすれ違い通り過ぎる。
 初秋、しかも今からの時分は日が落ちるだけだと言うのに、生暖かい風が外気に触れる肌に絡む。それだけでも少し身震いしそうなのだが、空気に乗って漂って来た気配に胸のあたりがムカムカしてくる。
「ヤな感じ」
 勝ち気に呟くが、正直なところ久しぶりに緊張が全身を駆け巡っている。
 賑わう街中を抜けあまり人目に付きにくい個人ビルの陰から近くの屋根に飛び上がる。トタンやコンクリートを大きく蹴っては屋根伝いに風を切った。
 より的を絞った目星がついたところで、目の前を黒いものが素早く横切る。
 カリと屋根に爪があたり、獣が前方に降り立った。
 距離を保ったまま、真夜は足を止めた。
「あーめんどくさっ。こんな時に出てこないで欲しいなぁ……なんて。もしかして足止め?」
 腰に手を当て気怠そうに顔を上げた。
 屋根を蹴った獣型の影は、中空を軽々跳び真っ直ぐ向かって来る。
「なめないでよね!」
 ヒラリと躱してその反動で向き直り仕掛ける。
「封じ!」
 威圧を含んだ語調で印を放つ。影が足を取られる。束縛から抜けようともがくが、そんな猶予など与えるわけにはいかない。
「……繚乱、散り風!」
 影の臭気に当てられて息巻く空気をつかまえ、花弁となった力を乗せ影を縦横無尽に切り刻んだ。
「即興! 即興!」
 ガッツポーズを取るもまだ終わってはいない。屋根の縁を踏み台に走る。
「どっけぇ!」
 蹴散らした残骸に目も止めず、真夜は先を急いだ。卯木の感じる感覚が流れ込む。確実な方向を声が指し示す。
 差し掛かったのは大きな川沿いに隣接する公園。その遊歩道から木々の間を抜け、小枝を横目に一気に躍り出た先には、広い河川敷に出た。


 束縛が効かない。
 手が伸びて来るわけでもないのに、どうやっても追い詰められている感は否めなかった。
 溢れる臭気もだが、やっかいなのはその手に宿す電気の塊。近くにはずっと続く送電線が、同じようにパリパリと音を立てていた。
 その手がゆっくり下りて、こちらに向けられる。その塊が放されると、みるみるうちにスピードを上げ裟摩子目掛けて飛んで来る。
 一度目は避けたが目の前には次の塊が迫っていた。それでも受け流すが後から後から繰り出され、防ぎ切れないと裟摩子が覚悟した時だった。
「裂破散拳《れっぱさんげん》!」
 開いた手のひらから発する強力な気の盾が電気の球を砕き散らしていく。
「大丈夫か、裟摩子」
「鎮破さん」
「後から他の家も来る。これは一人や二人では無理だ……そうだな、三年前と同じくらいかそれ以上。だがこちらとてただ三年を過ごしたわけではないっ」
 彼には珍しくも地の底から吐き捨てた。痺れるほどに伝わる臭気の醜悪さと、目に見えるどどめ色の濃い気配に鎮破の心が高ぶる。
 影は、鎮破は互いを探るように睨み合った。
 そこへ脇の雑木林から少女が躍り出て来た。
「裟摩子! 鎮破! 何コイツ」
「真夜ちゃん」
「遅いぞ」
 いつもの調子に真夜の片眉が上がる。
「足止めがいたのよ。この分だと後の二人にもいってる可能性があるわ」
 真夜は二人が対峙している影を睨み見た。
「影──って言うよりは化け物ね」
「真夜ちゃん気をつけて」
「あいつは、どうやら電気を操れるらしい。まったくやっかいだ」
 影は取り憑いた人、動物を操ることはあるが、物質を操り攻撃してくる影に相見えたというのは、真夜たちの代で唯の一度だけ。
 そうこうしてる間にほぼ同時に玲祈と棗も駆けつけた。
「四式玲祈、ただいま参上!」
「遅くなったわね」
「なんだあの化け物」
「鎮破。あれが──」
 五人の式師が揃った。五つの大小の影法師が、縦に伸びて地面に描かれる。
 改めて全員の目が影に集中した。
「いやに今度ははっきりしてる。気配とかだけじゃなくて、姿が」
 影が再び、手に注ぎ込むように電気の球を宿し始めた。
「来る」
「散った方がいい。連続で撃って来るぞ」
 栄養を蓄えた果実のように膨らんだ、電気を孕み纏う塊を影が投げる。タイミングを見て五人は跳び上がった。
「鎖景!」
「卯木!」
 真夜と鎮破が小将を呼び出す。主の力を受けた帯を引いて小さな二人は影を取り巻く。
 だが巻き付けられたところから影は払いのけるように引き剥がし、小将に向けて手を伸ばす。
 影の着いている足下からビロードのカーペットのように黒いものが一気に広がりだし、そこから湧き出すように手が伸びて来た。
「また!?」
 気を取られてる隙に卯木に振り上げられた手が当たる。
「卯木! 戻って!」
「戻れ鎖景!」
 黒く染まった地面から伸びた手は蠢き、その部分が僅かに盛り上がり別な影が次々と這い出て来た。
「げっ。なんだこれ」
「全部影型ね」
 最初の影が動くのと同時に這い出て来た数体の影もまた動き出した。
「みんな避けて! 流渦!」
 棗が凛と唱えるとかの水流の壁が影を囲む。
「ならこっちは。囚!」
 玲祈の叫びに残りの影がガラス張りのような立方体に包まれる。
 裟摩子は二人の後ろの影に気付いた。
「危ない!」
 小さく悲鳴を上げて手を握る。
「翔鳥!」
 押し出された力の翼が影貫く。
「サンキュー裟摩子!」
「まだだ」
 裟摩子の一撃は影を一時的に足止めしたにすぎない。鎮破が素早く持っていた布袋の紐を解き柄を引き出し、刀を構え繰り出した。
「はぁあ!」
 気合いの一撃が影を散らす。
「負けてられねぇ、火遁!」
 玲祈が吠える。棗が仕掛けるタイミングに、玲祈に競うように真夜も合わせた。
「散りなさい!」
「私だって!」
 印を結んだ手をなぎ払う。棗が目を閉じ紡ぐ言霊が力を増幅してくれる。
 瞬く間に影が融け崩れだす。が鎮破が気付いた。
「ヤツがいない」
「ちくしょーどこ行きやがった」
 影の痕とともに地面を染めていた黒も消え、一心同体だった最初の影はその場所から忽然と姿を消した。
「どこ!?」
「気をつけろ。まだいる」
「分かってるわよ!」
 どこから出て来るのか、真夜は神経を全方向に研ぎ澄ませる。
 音もなく気配もなく、辺りは静まりかえった。右へ左へとせわしなく目を凝らし、互いが互いに背中を預ける。 消えた影が気配を感じさせずに、いきなり真夜の至近距離の地面から飛び出して来た。近くの送電線から得たのか、影は頭上にさきほどよりも数倍大きい電気の渦の塊を持っている。
 昇り始めた月より大きく、五人の双眼に映し出される。


 
 

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