『式師戦記 真夜伝』

 
 第三十七話 風の吹く前に
  

 青いメタリックカラーの車は一つの場所を目指して北へと走っていた。
 風に揺れた秋桜を窓ガラス越しに横目で追い越し、膝の上に置いた手へと視線が落ちる。
 疑問もあり困惑もあったが、一人の存在がそれさえも遮ってしまう。意識を逸らそうと外に目を向ける努力をしたが、ハンドルを握る隣人の濃い気配が真夜のその意志を鈍らせる。
「ごめんね。強引に待ち伏せしちゃって。どうしても、連れて行きたいところがあったんだ」
「どこですか?」
「ははっ。敬語?」
 映った笑顔がにわかにひき締まる。
「いいよ、そんなの」
 落ち着かない、いたたまれない気持ちに真夜は希薄と過剰な意識の狭間で葛藤していた。
 手にはうっすら汗が滲む。
 横には焦がれていた人物がいた。その横顔を見ていたいけれど目を逸らしてしまう。ギアを変えるだけで心臓が跳ね上がったが、同時に滲み出る濃厚な気も見逃せなかった。
 この前、つい二日前は再会の嬉しさのあまり何もかもが頭からこぼれ落ちていたが、今は幾つもの疑問や困惑が交錯し始めている。
「ここって」
「階隠山。この辺りでは有名でしょ? 窪山っていう名前で」
 麓の草むら脇に止めた車から降りて、辛うじて遊歩道化されている山道を上って行くと、ひらけた見張らし台に着いた。
「一番最初に見せたかったんだ、真夜ちゃん」
 夕日をやや右よりに背にしている真夜に、遠くには輝く銀の群像が、そしてジオラマのように小さくなって広がるオレンジに染まった町が、パノラマとなって眼下に見えている。
「わあー!」
「体、もう大丈夫?」
「はい! 昨日一日寝てたらすっかり」
 勢いづいて薄紅に染まる笑顔は振り返った。
「真夜ちゃんらしい」
「らしい……?」
「真夜ちゃんは、僕にずっと会いたかったって言ってくれたね」
「……はい」
 自分の気持ちを当の本人に代弁されると、少し気恥ずかしかった。
 そんな真夜に柵に寄り掛かった緯仰は苦笑を見せざるをえなかった。
「実際には、円茶亀としてしょっちゅう会ってたんだけど」
「本当に、緯仰お兄さんが」
「うん。ずっと僕は円茶亀という立場で真夜ちゃんを見ていたんだよ。是謳!」
 名前を呼んだのだろう。言葉の後、真夜のそれと同じように煙のような霞に導かれ、一体の小将が出る。
 とても短くざっくばらんな白い髪に、魅き整った顔と体。
 しかしその小将の持つ気配に真夜は困惑と疑惑を強めた。
 察したように笑って小将は一人の人間に化ける。
 立ち込めた光のもやが消えて、真夜はパニック寸前で間抜けな声が出るばかり。
「え、えっ……と? あれ?」
「是にございます」
 確かに化けて一礼しつつ微笑を向ける者は、最近連絡もとれなかった仲介屋の一人。真夜はいつも“是のオヤジ”と呼んでいた。
「僕の右腕、是謳《ぜう》だ」
 緯仰の手が彼を指し示す。すると手品のようにまた立ちどころに元の姿に戻った。
「驚いた? そしてもう一人、君達式師に接触していた仲介屋がいたでしょ」
「まさか、暮さんまで緯仰お兄さんの小将とか?」
「あはは、それはないよ。彼女はれっきとした人間。君に近しい血を持つね。彼女は本名、日暮冴。何か気付かない?」
「日暮って、もしかしてウチの古い分家の」
「そうだよ。彼女と是謳に協力してもらって、僕は仲介屋になりすまし影を選り分け、分配していた」
「分配?」
 まだ困惑に揺れ動く真夜の瞳を、緯仰が正面から捉えた。
「君を、本当は側で守っていたかった。でもそれが出来ない代わりに、少しでも真夜ちゃんが強くなって自分で自分を守れるくらいまでの、せめて手助けになろうと決めて。たとえ日陰でもね」
 緯仰の夕焼けに満たされた瞳がふいに陰を帯びた。そういえばと、真夜はある事を思い出していた。
「僕の気配、気付いただろう?」


 真夜が緯仰の話を聞いている頃、この日もまた玲祈は懲りずに五式の家に来ていた。
「だから、稽古つけてくれよー!」
「……」
 キレた時の怖さを知っているはずだが、それをすっぽり落として来たように玲祈は鎮破にねだり寄っていた。
 鎮破も鎮破で、そんな余計な事に付き合っているほど心理的に余裕はなかった。
 鎮破はこの日休講が重なり、午前だけ早々家に帰っていた。思うところあって書籍に目を通していたのだが、玲祈が来てもそれを無視してあいかわらず本を読んでいる。
「こんなに頭下げてるじゃんて」
「……どこが下がってる?」
「えー下げてんじゃん、二ミリくらい」
「ははぁ……」
 後ろで呟いてみた問いに玲祈はけろっと答えるので、辰朗は肩を落とす。かくいう辰朗も昔に身に覚えのある手であった。
 といってもこんなマジではない、と反論めいた言い訳を心の中でぼやいていた。
 鎮破のこめかみに青筋が立つ。増えていくのが目に見えていた。
 遠からず噴火するだろうというのが辰朗の予測だった。
「いい加減にしろ」
 鎮破も平静を保つようにはしていたが、あの一件以来精神が乱れやすい。
 いくら瞑想に浸ろうと、心が澄された水晶のように不純物を取り除けはしなくなってしまっている。
「お前は、気付いたのか?」
「な、なにを?」
 口をついて出た質問は玲祈の目をしばたかせる。
「丸崎の──あれは、式師の力だ」
「そりゃあ、三式の分家なら持ってんじゃないのか?」
「だがその大きさにはまだ気付いていないのだな。百年早い。さっさと帰るんだな」
 本を閉じると鎮破は立ち上がって足早に部屋を出ていく。
 追いかけようとした玲祈はパシンと鼻先で障子を閉められてしまった。


「僕も式師なんだ。もっとも力においてのみだけど」
「緯仰お兄さんが式師……」
 あの時感じた力は、間違いなくそうだったと、改めて一人頷く真夜に緯仰は明るい微笑を返した。
「真夜ちゃんは途中で気付いたはずだ。是の気配に」
「……確かに感じたのは、緯仰お兄さんのそれと同じだったけど、最初は全然そんなのなかった」
「それにあの時見たはずだ」
 クスと笑みを見せると、緯仰柵から離れては真夜に歩み寄る。
「手を貸して」
 返答する前に、真夜は両手を絡めとられる。握られた部分から急激な圧力が真夜の中に流れ込む。
 圧力はすぐに微弱なものになっていったが、流れ込む速度は衰えをみせない。
「はは、はは……」
 真夜の口から乾いた笑いが漏れる。
「僕のはちょっとクセがあってね。だから円茶亀の時はこの気配をシャットアウトしてたんだ。もちろん普段も七割方抑えてる。化け物みたいだろう?」
 予期せぬ言葉に、真夜は力いっぱい首を振った。
「でも、とても嬉しかった。“僕”に会いたいと思ってくれていたことが。僕も“僕”として、真夜ちゃんに会いたかったから……」
 そよいでいた風が止まる。日は山の稜線に消え、あたりはラベンダー色の黄昏に変わっていく。
「僕は、泣かせてばかりだね」
「そ、そんなことない!」
 すでに解いていた手を、緯仰は真夜の頬に伸ばした。
 一筋の輝きを零した少女は、それでも緯仰の記憶に残る小さな真夜ではない。
「その力で私たちを助けてくれたんだ、ね。それよりもずっと前から、助けてくれてたんだ」
「いや。今からは僕が、君を守るよ」
 今さっきの通り過ぎたばかりの過去を再現するように、手を捉えられた。
「そのために、僕は陰から這い出て来たんだ。嫌だと言われると、困る」
「嫌だなんて……嘘じゃないですよね。夢じゃない、よね?」
 思わず再び零れ出していた涙を、真夜は空いた片手で必死に拭った。
「ずっとずっとこの中に、黒い塊が住んでてずっと私を睨んでた。逸らすけど耐えられなくて、ずっと怖かった。緯仰お兄さんの言葉だけが、私を許してくれたんです」
 真夜の言葉を、上手く相づちを打つように頷きながらも、緯仰は黙って聞いていた。
「それでも、黒い塊は消えてくれなくて、大きくなってって。だから、だから──」
「僕の前では泣き虫でいいんだ。他には誰も見ていない。僕らだけだからいいんだよ?」
 でも、と緯仰は続けた。
「出来るなら笑顔を見ていたいな。笑ってる顔が、とても似合う」
 それは呪文のように、真夜の涙をぴたりと止まらせる。笑おうと思わずとも真夜の頬が緩んだ。


「父には会ってかなくていいんですか?」
「そのうち、遊びに来させてもらうよ」
 おやすみと言って、暗闇に光るメタルブルーの車は颯爽と走り去った。
 門の軒下でぼうっと暗くなりかけの道の先を見ている真夜を、咲は見つけて声を掛けたのだ。
「へー。ショックのわりにはよく知恵熱出して倒れなかったこと」
「咲さんもいじわるいなあ。過労気味な上にショックの心労で倒れたのであって」
「あら、真夜のは知恵熱で十分なんですよ」
 咲は腕を組んだ。
「人を子ども扱いしないで欲しいなあ」
「精神年齢が幼稚園児並みなのよ、真夜は」
「あーそれってヒッドい!」
 だいたいにして、なあにが“かわいいお嬢さん達”よ、キザったらしい。
 内心で毒づいているが、本人が現れるまで咲自身は片割れの淡い恋を半ば全面的に応援していた。
 お互い人並みに幸せになることを望んでもいいはずであるし、それが望める相手がいて、しかも関係者なら申し分ないと展望していたのだが、実際目のあたりにすると理由の分からない絶望感に襲われた。
 嬉々として語られる言葉は本来祝ってやるべきことなのだが、それどころか咲は苦々しい思いをどこへもやれず苛立っていた。
「それって嫉妬なんじゃない?」
 それは電話越しの姉の言葉だった。
「あのね、それって私が真夜に彼氏出来たの悔しいってこと?」
「違う違う。その人に真夜をとられるのが嫌だっていうヤキモチ」
 咲の姉は実の妹と分け隔てなく真夜を呼び捨てでよんでいた。
 妹のもう一人の姉妹というなら、自分にとっても姉妹だと。
「咲にとってはそれこそ兄弟どころかホントふたごみたいに育った相手だからね、無理ないんじゃない」
 実の姉ながら的確に的を得ていると咲は思う。
 とられたくない。その気持ちを咲はこの時はじめて認めた。
「私もよくあるわよ。一番仲のいい友達が私の前で彼氏の話ばっかりしてて、私ってなんなのから始まって」
「そんな時お姉ちゃんならどうするの?」
「え? 私?」
 しばしの沈黙は考え込んでいる姿を想像させて、少しばかりだが咲の口許をほころばせた。
「咲と私の場合じゃ全然違うよ。この際正直に言ってやれば?」
「ん……」
 姉の言っている意味は分かっている。だからこそ咲は素直には返事が出来ない。
「でもなんか嬉しいなあ、咲とこんな話が出来るなんて。私の真夜へのヤキモチも吹っ飛ぶってものよ」
 咲は顔を上げた。意外や意外だが、納得も出来る。あまり一緒に過ごした時間はなかったけれど、それでも姉は実の姉で、姉妹なのだ。
 それは変わらない。
 なら、もう一人の姉妹も、血は違えど同じことだ。
「ありがとう、お姉ちゃん」
 嫉妬感は残るけれど咲は清々しい面持ちで電話を切りかけて、姉の次の言葉に手を止めた。
「そういえばね、いよいよ三師が揃うそうよ。もちろん三枝は私」
「三師が揃ってどうするの?」
「分かってるくせにそうやって聞くところ、かわいくないぞ」
「お互い様でしょ」
 乱暴めに電話を切る。
 ただの嫉妬ですませられないから、苛ついていることを咲は思いだした。


 それは確固たる自信をもたらしていた。
 あの笑顔がこの胸にある限りは揺るぎないだろう。
 緯仰の口腔から音なくも息が零れる。安堵ゆえに出る吐息だった。
 だが安堵感の余韻に浸るほどの時間を与えてはくれない客が、丸崎の家を尋ねていた。
 自室で顔を突き合わすなり、緯仰は先手を打ってその相手に告げた。
「教えてあげたいのは山々だけど、自分の足で見聞きすることを忘れちゃダメだよ」
 虚をつかれたのか先回りされたからなのか、鎮破は開きかけた口をしばらく黙らせていた。
「……何が目的なんですか」
「言っただろう? 陰に徹するのに飽きたんだと」
 鎮破にさえ穏やかげな笑みを向けるが、どこかそれは寂寥を帯びている。
 しんと静まる中四つの瞳だけが見えない光を湛えて見据えあう。
「上の方々はご承知の上で動いておられる、と言うことですか」
「狗かと聞いているのかい?」
 軽く声を上げて笑う緯仰と対照的に、鎮破は眉間にしわ寄せて顔をしかめた。
「僕の矜持だけでやっていることだ」
 強い光の満ちる双眼が鎮破を射る。
 初めて緯仰の真剣な表情を見た気がした。


 
 

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