『式師戦記 真夜伝』

 
 第三十八話 闇は開かれる
  


 最近では日課となりつつある遅い午後のティータイム。
 その主役に川間の血を引く二人はフォークを突き立てていた。
 この家の招く側として主は渋みのある和菓子を好むのだが、テーブルにはビターな光沢でコーティングケーキが三つ並んでいる。
 もちろん中の二つは手がつけられている。もともとは四つあったのだが、喚き散らしている一人がすでに自分の分を腹に納めていた。
「なーあーって!」
「飽きないよなあ。やっ、その根性だけは感服するよ」
 手を叩く青年の横で、一緒にフォークを持ったままもう一人の青年が深く溜め息をついた。
「ほめないでくれるか、辰朗。玲祈様がますます」
「すっぽん状態だな、あれは。一度食いついたらなかなか離れないタイプだったのか」
「お前は結構飽きっぽいタイプだからな。似た者同士だと思っていたが、意外に極端な違いがあったのか」
「どおこが似た者同士なんだよ」
「……なんとなくだ。しかし鎮破さんもよく我慢してらっしゃるな」軽く忍び笑いをして辰朗は視線だけを動かした。
「あれでも二回ぶっ飛ばされてんだぜ? 暁哉のいない時に。たぶん負けず嫌いだし、すっぽん状態でそんなことさえ気に止まんないって顔してたから、言ってないと思うけど」
「一度厳しくやって頂いた方が良いと思うんだが」
 暁哉はまた一つ溜め息をこぼすと、ケーキには不釣り合いではあるが辰朗によって出された日本茶をすする。
 傍らではなおも攻防が続いていた。
「俺が何に気付いてないって言うんだよっ」
「……阿呆が」
「お前だってなんだかんだ苛ついてるんじゃねえか」
 玲祈は深く低い溜め息を聞く。
「──道場に来い」


 チャイムが放課後を告げ、テストの準備期間ということで、部活もなく陵ヶ河原の生徒達はバラバラと帰って行く。
 昇降口から出足遅く出て来た三人のうちの一人の、クリクリの大きい目が二度開閉を繰り返した。
「まーやっ。真夜ってば」
 トロトロした歩みの真夜の前を、咲・晶菜・実佐子は三人で歩いていた。
「これで三日目。いいかげん気持ち悪いわ」
「家でも私にさえあんな感じなのよね」
 三人娘は顔を突き合わせながら歩いていた。
「今日なんて授業中もぼーっとしてて怒られたよね」
「もしや噂の彼氏とチューでもした?」
「それはないと思うな」
「へー、さすが咲。真夜のこと本当によく分かってるよね」
 もう一度三人娘はそろりと振り返る。
 しまりのない顔とはよく言ったものだ。おまけに上の空と来れば年頃の女の子は、リアルな勘を発揮する。
 下校していく生徒達の、その背の群れの間から、実佐子はめざとく校門脇で佇む一人の人物を見つけた。
「ねえ真夜──」
「真夜ちゃん」
「緯仰お兄さん!」
「迎えに来たよ」
 現れただけでもむかむかするところに、追い打ちをかけるような台詞が咲の耳に届く。
「真夜……」
「ごめん、約束してたんだ。じゃあ二人とも、また明日ね。私の代わりに咲を連れ回しちゃって」
「真夜っ」
 そのまま路肩に寄せられた車に乗り合わせていずこへか走り出す。
「真夜ちゃんはあんみつ好き?」
「はい! とっても」
「良かった。久しぶりに行くから、手土産に一式のおじい様の好きなあんみつをと思って買ってきたんだけど、真夜ちゃん嫌いだったらどうしようかなって」
 緯仰にとって一式の敷居を跨ぐのは、実に七年ぶりのことである。戸が開け放たれた奥の間には、獅子脅しの響きと竹の葉の微かな囁きだけが聞こえている。
 軽い挨拶を済ませた後、久方振りとあって緯仰はしばし判鳴と二人きりで話しをしていた。
「直接会うのは本当に久しぶりだな」
「ええ、なるべく式家との接触を避けていましたから。丸崎緯仰としては。お元気そうで何よりです」
「お前もな。まだ、あれは見るのか」
 緯仰は笑うように溜め息をついた。
「時が経つにつれて、増すばかりです。最近はもう昔のような漠然としたものじゃない、はっきりとしたものばかり」
「そうか……」
 沈黙がビジョンを呼び起こす。


 雨の中に立っていると思った。
 視界は水面のようにおおらかに屈折し、体中がわずかな痛みを訴えていた。次に見たのは黒い壁が立ちはだかる夢だった。
 壁は錆びた鉄のように粟だって見える。触るとツルツルなのかヌメヌメなのか、とにかく嫌な感触で、どんどん手が中に飲み込まれてゆく。
 振り払いたいのに、蔓のようにからみつく。
 起きると吐き気を覚えてどうしようもなかった。振り返る緯仰には、それが始まりに思えていた。
 漠然として、はっきりしているわけではないのに妙なリアルさがあって、恐くて眠れなかったのが、八つになった頃だ。
「兄ちゃん、外で遊ぼうよ」
 夏の真昼間、暗い部屋の隅、見ていたのは自分の膝小僧だった。
「行こーよー」
 明るかった弟が遊び相手をせがむ。いくら誘われても、緯仰は気が乗らなかった。
 あまりの様子の変わりように、丸崎家の両親は体も精神面をも心配していたが、話を聞こうとしても口を噤んだまま話さない。
 原因を考えていた矢先、事態は少しの進展を見せた。
 夜半、寝ている息子の様子を見に行った母親が先に気がついた。
 何ごとかの夢をうなされている。それもかなりの苦しみ方だった。


 緯仰は笑う。
 眩しいが明るい世界には受け入れてくれる存在もいたのだ。
「分かったのか。その正体は」
「ええ。人の名を砂上《さがみ》、ようやく頭の素姓に目星は付きました」
「砂上?」
「はい。古い式の書に“左条”という名が書かれています。どのような経緯かは定かではありませんが、変じて“砂上”となっていったのだと思われます」
「あれが見せたのか」
「……そして穴も、ほぼ見当がついています。その意味さえも」
 屋敷中が静まりかえっているようだった。耳を澄ませば竹の葉のふれあい、時が満ちれば獅子脅しが鳴り響く。
 だが二人には届いていなかった。互いの言葉だけが二人を取り巻いてた。
「彼らにもいずれは知らせるつもりです。けれどその後は」
「抹消が妥当だな。我らが代々墓所の在処をそうしてきたように。我々はもう遺物となっていく身だ。先はお前たちが決めて行くがいい」
「はい」
 固く決められた意思を宿す緯仰を、判鳴は正面から捉えていた。
「そのつもりだ、という顔だな」
「勿論」
「お前は、そうしてきたんだったな」
「いいえ。新しい世代はみんなそうやってきた、ただそれだけです。ですよね?」
「そうだったな」
 また緯仰も、穏やかな師を捉える。
 ふいに障子戸が開き、真夜が顔を出した。
「話し、終わった?」
 唐突に顔を出したことと粗い言葉遣いに、判鳴の咳払いが咎める。
 微笑ましいと緯仰は見守っていた。
「お話しはお済みでしょうか」
「ああ」
「ちょうどね。真夜ちゃんの部屋、見せてもらっていい?」
「はい! お父様はお茶も出させないものだから、部屋に持ってってあるんです」
「では、私はこれで」
「土産なぞ悪かったな。父も今日は所用で出掛けている」
「連絡もなしに押しかけたようなものなので。ご多忙とは思いますが、どうぞ体を労って下さい」
 珍しくも笑い声を立てた判鳴を残し、二人は奥の間を出た。だがあまり歩かないうちに、緯仰は真夜の様子の異変に気付いた。
「どうしたんだい?」
 静かに尋ねられ、真夜は素直に口を開く。
「私にはいつも気難しげな顔しかしない父様が、緯仰お兄さんとは楽しそうに笑ってるんだもの」
 部屋へと通された緯仰も、笑い声を立てながら座った。
「父親はそういうものなのかもね」
「緯仰お兄さんはどう?」
「僕かい?」
「そう。もし父親になったら──」
 ここまで尋ねてから、真夜は言っている言葉のはらむ多彩な意味に、とっさに顔を俯かせた。
「僕は、そう思われないように、いつでも笑顔でいてあげたいと思ってるよ」
「ふー、ん」
 真摯に答えられた真夜は、次の言葉さえ思い付かなかった。
「こっちの時にはもっと明るかったよ」
 おもむろに緯仰が取り出したのは見慣れた丸サングラスだった。思わず真夜の目も丸くなる。
「い、緯仰お兄さん」
 声を立て笑う緯仰を見るのも、真夜には今日が初めてに思えた。
「おすましさんもかわいいけどね。結構、僕は嬉しかったんだよ? 笑ったり怒ったり」
 正体を知らなかったとはいえ、緯仰にはけっして見せたくない姿を見せていたのだから、苦い笑いが真夜の頬を吊り上げる。
「笑ったり怒ったり、泣いたり喜んだり、感情そのままにぶつけてくれるのが僕にはとっても嬉しかった。心を許してくれてるんだって、例え正体不明の男だとしても」
 穏やかな表情はいつしか色味を失いかけ、緯仰は淡々と語る。
 真夜は胸に軽いを戸惑いを覚えた。


 実佐子や晶菜と別れた咲は、一式のある所とは別住宅街を歩いていた。
 おぼろげにしかあまり思い出のない土地だが、それでも咲の胸に安堵をもたらす。
 住宅のひしめく辺りを抜け、奥へと進む。まだ虫の声が絶えない青々とした小高い山の入口に差し掛かる。
 石畳の門前に構える灯籠が両脇に、石造りの秀麗なる額を冠した鳥居をくぐり抜け、そこには森を分ける一本の階がまっすぐと傾斜をつけて頂上まで伸びていた。
 ここはもう咲の家であり庭の中だった。
 見慣れた階段の欠け具合、季節を折っては見せる森の顔や匂い、中間に座る二匹の狛犬、階段の脇に整然と並ぶ灯籠、すべてが神性に張り詰める空気を構成していた。
 咲の姉・涼はこの日、家にいた。
 雑誌に落としていた視線を、何かが聞こえたように思えて窓の方に向ける。
 どうも気になって立ち上がった涼には、まだその場では外の様子が見えない。
 どこぞからかせり上がる衝動に襲われ、気付いた時には廊下。裸足のまま戸外に飛び出したところで、社殿正面に伸びる階段に妹の姿をみとめる。
 涼は無意識に叫んでいた。
「咲! ダメ!」
 聞こえたのか聞こえなかったのか、咲の姿は涼の叫びとともに背後に開いた闇に飲まれた。


「一本だ。実力を見るならそれで十分だ」
 上座に立つ鎮破の動きが止まる。
 こうして真面目に正面から対峙することがなかった玲祈は、戸惑い気味に身構えていた。
 並の人間には視ることの出来ない仄明かりの帯が、体中から放出される。それが自分に向けられているものであることは、玲祈にも分かった。
 手は抜けない。
 抜くことが出来ない。
 これは真剣を返さなければならない、そういう時だから、憶することは出来ない。
 合図はない。
 あるのは互いの呼吸のみ。
 鎮破の右手が宙を切り裂き、玲祈に迫る。
 切断されたのは辛うじて毛先のわずか。躱した玲祈は鎮破の懐には入り込むも、手を戻すより早く脇に一蹴が入る。
「ぐぁっ」
 喉から音が出た瞬間には壁にたたき付けられていた。
「終わるか?」
「まだまだっ」
 壁を蹴る頃には鎮破の手刀が玲祈自体を払う。
 それでも空中でどうにか体をひねって玲祈は飛び上がった。
 そのまま──そのまま攻撃に転じた足と、宙の獲物を狙う腕が交差する前に、けたたましく障子戸が開いた。
「ちょいタンマ! 鎮破大変だ!」
「玲祈さま!」
 川間の二人はいつになく血相を変えていた。


 
 

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