『式師戦記 真夜伝』

 
 第三十九話 始動、救出作戦
  


 ここは……暗い。
(夜?)
 違う──。
 咲の瞳の中は暗闇しかなかった。
 だが状況はすぐに思い当たる。
(これが……影の中というわけね。なら、私には何を見せるかしら)
 おもむろに目を閉じる。
 咲自身、見せられて困る過去や気持ちなどは持ち合わせてはいなかった。
 真夜と同じものを見せると言うなら願ってもない。半身が背負うものを、同じように正面から見つめてみるのも悪いことではないと咲は思った。
 音も光もないただの闇は、咲にとってなじみの感覚だった。このまま漂うこととなると、いつものように夢に入って行く。
 いや、そもそも眼で見ているものなのか、別のものに見せられているものなのか、咲には分からなかったが、輪郭がぼうと目の前に浮かんできた。
 誰かが路を駆けている。慌ただしく駆けているのは二人──。
 前を行く一人が振り向くのを咲は見ていた。
(真夜──違うっ)
 よくよく見れば別人と分かるのだが、一瞬その顔は親友のそれに見えた。本人を見ているかのようで眼が離せない。
(変よ……格好がまるで大河ドラマとか……そんな感じ)
 咲自身も三枝の人間である以上、日本の古き衣装には馴染みがあり着慣れてもいた。
 だからこそ、
(これは……誰?)
 もう一人はと目を凝らす。
 束ねている髪の隙間から耳に切り傷が見え隠れする。目は据えられているが、穏やかに整った顔立ちをした青年だ。
(なんで……)
 どちらも別人である、はずなのに。
 そう。今日二人は一式の家にいるはずだ。約束していたからと、彼が迎えに来て一緒に帰っていった──。



 木陰から月が見え始め、風も吹かない鎮守の森は静けさを深めていた。
 地上と神域である山上を結ぶ幾百の石段が、脇に居並ぶ灯籠によって森を分かつ間に照らし出されている。
 その石段の最上、頂きの拝殿前に広がる石畳の広場には、焚かれた四つの松明の明かりの中、複数の人間が立っていた。
「気配が充満してる。手強そうじゃない」
 勝ち気な口が、夜の境内ではよく通った。
「で、なんで玲祈がいるの」
「……そこのおっさんに呼ばれたんだよ」
「玲祈のくせに、おっさん呼ばわりしないでよ、緯仰お兄さんに」
「おっさんはおっさんじゃねえかよ!」
「なんですってぇ!」
 真夜は苛立っていた。だが珍しくも玲祈の方も退かない構えでつっかかって来る。
「まあまあ真夜、玲祈君とやらもやめなさい。一応ここ私の家なんだから」
「とやらは余計っスよ咲のお姉さん」
「涼ちゃん……美人がだいなし……」
 腕を組み鼻息荒くも巫女姿で二人を叱りつけたのは、咲の姉である涼であった。
 その後ろには三枝姉妹の祖父、七代目にあたる“三枝経原”である三枝輝武も広場へと出て来ていた。
「お山は武涼が閉ざした。まだ出てはいないようじゃ」
 緯仰は、その手にはめた腕時計を見やる。
「さて、それでは始めますか。あまり時間をかけてはいられないからね」
「私の咲を誘拐するなんて許せないわっ」
「たっぷりお礼してやろうぜ」
 拳を握った真夜に玲祈も同調する。
「涼さん、後をお願いします」
「バックアップなら任せてください。お山総動員も用意は出来てます。真夜……」
「……」
 真夜は涼の視線を受け止める。
「……咲をお願いね」
「当たり前よ! 咲がいなきゃ私、生きてけないもの」
「それはちょっと聞き捨てならないな」
「い、緯仰お兄さんだっていなきゃダメです」
 くすりと緯仰は笑う。
「良かった」
「あーのさあ、色仕掛けしてんじゃねぇよおっさんがよ」
 ぶちぶちとふてた玲祈への返事を返さず、緯仰は顔の向きを森に据える。
「お出ましのようだね」



 一式家で真夜に仕えている佐伯は、ここ幾日か真夜の世話を外れ、今は出産のために入院した妻のベッドの傍らで、その顔を見つめていた。
「まさくん」
 ベッドに横たわる身重の妻、夕美が顔を上げる。
「どこか具合悪くなった!?」
「違うよ」
 夕美は顔をほころばせる。
「真夜ちゃんに付いてあげてなくていいの? 最近私に付きっきりでしょ? そうじゃなきゃどこか出かけてるって。私は大丈夫だって言ってるのに。一式の奥様だって時々見に来て頂いてたし」
「果月様に聞いたの?」
「聞いちゃいけなかった? まさくんは結構一人で背負い込むクセがあるから……何かあったの?」
 若い妻は、ベッドの脇の同じく若い夫に手を差し延べた。
 佐伯がその手を握り返す。
「……うん。色々あったんだけど。でも、心配されてたみたいだから、今は夕美のそばにいられて良かったと思うことにする」
「そばにいてくれるのは嬉しいんだけど、なんだか元気ないもの。妊婦の奥さんに向ける顔じゃないんじゃない?」
「そう? そんなに酷い?」
「少なくとも、これからパパになる顔じゃないわよ?」
「……ごめん」
 自然とそれまで強張り気味だった頬が、ゆっくり溶けていくように佐伯は感じた。



──遡ること一時間ほど前。
「咲……が?」
『本当よ、私が見ちゃったんだもの……お願い真夜、すぐ来て!』
 真夜にとっても実の妹ように扱ってくれる親友の姉は、電話口で影の襲来と咲が連れ去られたことを告げた。
 咲が……──。
「緯仰お兄さん……」
 電話を切った真夜は、そばにいた緯仰の胸に顔を沈めた。
「真夜ちゃん」
「咲が……どうしよう。咲まで影に食わちゃった。そのままどっかに──」
「落ち着いて?」
 緯仰は眼下の黒髪を撫でた。
「だって、だって……」
「いま泣いてる暇は、ないよ?」
「……はい」
 目の端の滴をを真夜拭い払う。
「うん、いい子だね……三枝なら逃がしてないよ。真夜ちゃんはご当主にお知らせして。他家には僕から連絡する。すぐ出かけるからね」
「はい!」
 ぱたぱたと駆けていった廊下の脇から、臣彦が出て来た。
 相変わらずの難しげな表情で妹を見つめていたその背に、緯仰は声を掛ける。
「臣彦さん」
「……来てたんですか」
「お邪魔してました。挨拶したばかりですいませんが、ひとつ頼み事をしてもよろしいですか?」
「何かあったんですね」
 緯仰は人当たりのいい笑顔のまま答えた。
「急を要する事態になってしまったので。三枝の咲ちゃんが影に。芳藁のあの薬を調合しておいてもらえますか」
「四式にも、もちろん真夜ちゃんにも、渡してますよね、毎回」
「……ええ」
「このまま次に桜が咲く季節が来るまでは途切れさせないで欲しい」
「……あの薬は効きが良い。真夜もああいった類いの薬とは相性が良い。次の春まで長引かせずとも」
「いや。予防というか、事前策として飲んでおいて悪いことはないですよね?」
「……害にはなりませんが」
「なら、お願いします」
「緯仰さん」
 彼は答えない。
「なぜですか」
 柔らかな笑みを臣彦の脳裏に残して、彼は廊下を戻って行ってしまった。
 ぎりりとなった奥歯の音は、そばにある自らの耳にさえ聞こえてはいなかった。



 山上から斜面の森への際、肌白い砂と草や木に支配された土との境界線と、そして地上からまた森への際。この間にあるお山の森が外堀と呼ばれる一重めの結界の域にあたる。
 守名の響糸同様引板鳴子のように侵入者を伝え、生きた物以外は皆ここに閉じ込める役割を果たす。
「おっさんが力使って一人で片付ければいいんじゃないか?」
 緯仰と玲祈は、遥か森の向こうに消え入りそうに離れて立つ真夜を見ていた。
「それをするならわざわざ君を呼ばずに、僕の活躍を見てもらっているよ。だが、僕は式師じゃない。予星のひとつにすぎないはずだ」
 目は、一人の少女をただ見つめていた。
「君達が倒してこそ意味がある」
「予星だからなんだよ。真夜を危険に晒しても平気ってか」
「たとえ想う相手でも、この仕事は手伝えこそすれ、肩代わりは出来ない。それは真夜ちゃんも解ってる」
 解っていないのは己のみ。玲祈はそう言われた気がした。頭に血が上りかけたが、色濃く迫る気配から遅れてようやく敵は姿を人の前に現わした。
 さわさわと木をまさぐり、草を押し退け、それはゆっくりと、腰に片手を当てふん反り気味の真夜を目指して向かっていた。
「気持ち悪い格好やめてよね。咲、返してもらうから」
 じわりじわり染み渡ってくるように、影は真夜へと向かって来る。
 その足がひたと、二本ほど手前の木立ちの間で止まった。
「三枝もなめられたわね。咲に十倍返されるわよ? 見たところ見当たらないけど。咲をどこへやったの」
 やって来た影が、そのままその場に水のようにじわりじわり広がる。
 近付く陰なる染みをよけ、わずかと後退る真夜の目の前で天地逆さと黒の滴が降り注ぎ、逆三角の見慣れた敵の形となった。
──先んじて手を打つのがまず一手。
「破ぁっ!」
 刺指は、指先や手・腕全体と力を集約させ影に対抗し得る刃とする技を言う。
 形が完全なものになるのと同時に斬り込まれた刺指によって、影角張った左肩から腕を引き裂いた。
 短く醜い声をあげると、反対の腕を延ばして来る。その間に引き裂いた腕は塵と去った。
「八ツ森! 洲播!」
「がってん!」
 真夜のその一声を待っていた玲祈が息巻き、両の掌を向かい合わせる。
「甲・包《つつみ》!」
 垂直に向かい合わされた掌は、撫でるよう水平へと角度が変えられる。
 真夜の前後に現れた玲祈の小将を基点に、亀甲を象った力の盾が真夜を包む。
 腕が届く間に出来たばかりの盾が、影の攻撃を阻む。
 硬質のものがぶつかる音はしたものの、真夜への衝撃は皆無だった。
「やるじゃない、玲祈」
「あったりめぇだ!」
 糸もないのに会話が成立しているかのように、離れた互いの言葉がぴたりとはまる。


 
 

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