『式師戦記 真夜伝』

 
 第四十話 黒墨の森
  


 墨の匂いが漂い、明かりの灯るただ一つの部屋で、判鳴は一人書に向かっていた。
 書道の一流派の宗家であり、今日は自宅に隣接する教室の開講日であった。
 手習いの子ども達や遅くに習いに来る大人達でさえ帰り、教室に使っていた部屋はすでに静まり返っていた。
「先生、ここでしたか」
 家人とは別の、書道教室の助手の一人が判鳴を見つけ声を掛けた。
「奥様が、なんでも佐伯くんの奥さんが産気づいたそうで、お手伝いさんとお出かけになりましたよ」
「分かった」
「お悩みですか……今度の流派大会の作品か何かですか?」
「いや」
 一面に広げた半紙は、どれも書きなぐったよえな作品であった。
「では、私もこれで。お先に失礼させていただきます」
 最後の助手も帰ったが、その後も判鳴は夜更けまでそうして書と睨み合っていた。



 裂かれた影の腕が塵になる。
 それを見守る涼やかな横顔が玲祈には気にいらなかった。
「玲祈くん。あれがどう見える?」
「どう……って、影が影から出て来てるんだろ?」
「君はそういうパターンを見たことがあるかい?」
「…………」
 玲祈は問いの真意を掴み損ねていた。地に広がる影からは、触手のようなものがいくつも生え伸びる様は何度となく見慣れている。
 あの、さきほどの影は影型の悪化が進んだ形なのだろう。しかしそこからは現れたのは“形《カタ》”と呼ばれる、人に憑くことが主で“人形”をして見える影だった。
「影が──別な影を召喚したってか」
 振り返り見たそこに、緯仰の姿はすでになかった。
「お……おい! おっさん!」
 見回したが目に映る範囲にはもういなくなっていた。
「タラシ野郎……どこ行った!」
 わめくが小声なので空しくも高々闇に立つ木々に吸い取られる。
 もしやと凝らして見たが、真夜の方にも行ってはいない。
 形はまだ消されてはいなかったが、角の欠けた豆腐のように肩から胸に掛けてはえぐり取られ、腕もなく足も散り散りと、そこにまだあることがむしろ驚きだった。
 それでも真夜の印を見て次で片付くと玲祈は思った。
 玲祈は動けない。甲遁の“包《つつみ》”は掛けた相手が不要になるまでこうして盾を紡ぎ続けるために、離れることも動くことも出来ず、自分がおろそかになる。
 どこからあの男はこの技を知ったのか。四式の応用術も深く分け入った代物で、第一に玲祈はそんな後手のような術もとっくに頭にはなかったくらいだ。
 それをあえて使わせた。加えて当人は姿を消し、戻る気配がない。今夜はまた何事か穏やかには終わらないのだろう。
 玲祈が己の危険もともに心を据えた時だ。真夜は最後の印を放つと形は見えない力に押されに押され、ついに散った。
 だが見れば地に染み這うような影はさらに広がりを再開していた。
 すでに夜が覆う森は暗く、宵闇が見せる陰りと見分けがつかないほど溶け合い、外から見ていた玲祈でさえ気付けなかった。
 真夜は足下を掬われる感覚に、ぎりぎりまで手を伸ばした。
「こっの!」
 だが闇の縁《ふち》どころか、近くにあったはずの木の幹さえ見つからない。
 影の造り出した闇の穴に真夜の体は吸い込まれていった。
「真夜!」
 叫ぶと同じくして玲祈は周りを囲む別な気配を感じ取った。
 広がった闇は玲祈の足下をも埋めていたが、何者かが包んでいるために落ち込まないで済んでいるようだった。
 ぐるり見回すと、ぼんやりと辺りのざわついたものとは違う澄んだ気配が玲祈を取り込んでいることが分かる。
「卯木・仂!」
「はい」
「おーっ!」
 ふわり玲祈の両肩に姿を現わしたのは、真夜の小将である。
 “包《つつみ》”に玲祈の小将・八ツ森と洲播を使う、その代わりとして卯木や仂は玲祈に付いていた。
「仂。ちょっとそこら辺刺激してくんねーか?」
 玲祈は親指で真上をさした。
「おっしゃまかせろぃ!」
 仂は腕をまくるとひゅっと飛び上がり、何かにぶち当たる。
 演武を披露する少年さながらに仂は手当たり次第を手探り、足裏で感触を確かめた。
 一方卯木は真夜が初めに手にした小将ゆえに、一番真夜との繋がりが強く意思の疎通もはかりやすい。
「真夜の気配はちゃんとあるよな」
「はい、確かに感じられます」
「まあこうなるのも作戦の内だ。前にもこんな状況は経験済──」
 言い終わらずに玲祈はあるところに思考がぴたりと止まった。
 守りで亀甲の盾はよく使っていた。それは影の攻撃や手を防ぎ避けるためのもので、深海に潜るための潜水服のように懐に入るために使ったことはなかった。
 元々「遁」とは、古来忍びの者が使う敵より逃げ延びるための遁走術を意味する。
 たまたまあの守房での一件で亀甲を使った状態で影に取り込まれたのだが、それが幸いして後の回復は早かった。
 それに、たまたまであれ亀甲の盾にそんな使い方が出来るとは、玲祈の頭には及びもつかなかった。
「まさかな」
 ひくりと口の端が痙攣する。



 三枝の本殿とは垂直に向きを分かつ別殿で、涼の父親は祭壇の前に胡坐不動で瞑想していた。
 木の床わずかと軋む音がだんだんと近付き、別殿の室に入る。
「お父さん。私が代わるわ」
 涼が座り手を組んで祭壇に拝礼すると同時に、父親の武涼《たけすず》が無言で場を渡す。
「ウチのお山入ったこと、そしてウチの妹に手出したこと、何がなんでも後悔させてあげる」
 勝ち誇ったように涼は心の中で笑う。
「森守の主よ」
 声は風となって森を走った。
「わっ! なんだあ!?」
 森の奥で玲祈を包み込むなにものかが、墨夜の森で薄白く光を帯び出した。



 今宵、闇夜を照らす月はなく、風は微弱にさわさわと木々の間を行き交っていた。
 一人さらに奥へと回り込んで来た緯仰は、知っていたのか人影が二つ現れても驚きもしなかった。
「やあ。……はじめましてかな?」
「六奉鶴史です」
 影の小さな方が応えた。
「うん。いつも真夜ちゃんがお世話になってるね」
「それってなんかおかしくないですか?」
「確かに。でもそんな気持ちなんだ」
 片眉上げて腑に落ちなそうな鶴史に、甘い面持ちが返された。
「惚気るのも相手考えろよ」
「惚気に聞こえた?」
「ばっちり」
 呆れつつ笑ったのは丸崎の本家三式を補佐すべき八奉濱甲であった。
 談笑も進まずしてほどなく、空気が森ごとざわめきを増す。
「玲祈くんがあっちで一人でいるんだ」
「鶴史。悪りぃが先に行っててくんないか」
 濱甲が顎をしゃくる。
 二人は示した方とは逆方向に目を付けたままだ。
「上を行くといいよ」
 多少おちゃらけ口調で言われたアドバイスどおり、鶴史は枝を渡って森の合間に消えていった。
「真夜はどうしたんだ?」
「潜ってもらってる。僕の是謳も付けたから。濱さんはいいの?
 後悔するかもだよ」
「なぁに言ってやがる。俺は今日ははなっから腹括って来てるんだぜ」
 吹き飛ばそうかというほどの風が押し寄せる。
 緯仰はすらりとしているが濱甲はさらに厳つい長身を持つ。その巨体すら踏ん張らなくては飛ばされると思わされるほど、その瞬間の風速は凄まじかった。
 だがその風圧はさらに別の重みをはらんでいた。風圧というよりむしろ毒気の濃密な息苦しさが直に胸を抑え付けようとしていた。 どろどろとした気配が覆いだすその中に、またひとつ人影を見出だしたのは、ほんの数瞬後だった。
「やっと会えたな」
「現世人《うつしよびと》。お前ハ幾つ星か」
 暗がりにも見てくれは人であるようだった。
「幾つ星《いくつぼし》とはご挨拶だな。尋ねる方が名乗るって礼儀は古いのかな?」
「邪魔者ニ礼儀ナドイラヌハ。首の命で参上仕った」
「おびと?」
「首と書いておびと。古い長や首領の呼び方だ」
「待てまて待てまて。まさか奈良時代とかそんな頃の……」
「うん、その頃のだね」
「焔ヨ」
 辺りに、仄青白い明かりがぽつぽつとも次々におびただしく浮かぶ。
 薄く照らし出された姿は黒ずむ装束に身を包み、体中より黒き炎のような気配を隠す事なく露わにしている。
「何をしに来たのか聞こうか。影百護の御仁」
 酷白に男の口が吊り上がる。
「挨拶へ」
 男の掌が地面に向けて開かれる。
 ついと墨を落としたように、明かりで照らされた草木の陰影を消し、闇の奈落が口を開ける。
 地に向けられていた手が今度は天を仰いだ。
 濁流湧くが如く、闇の口より幾つもの黒い小山が盛り上がる。男より高い位置まで伸びたそれは、輪郭のぼやけた影へと変じた。
「行ケ」
 命ぜられるまま影は飛び出す。脇目も振らず一斉に緯仰と濱甲の両名に向かい来る。
「けっ……痺れるな」
 迎えたことのない桁の違う気配に、濱甲は腰を落とした。
「業禍・流刀斬《ごうか・りゅうとうざん》」
 相対させた掌の中、激しい渦潮のように力を一挙に塊とする。
 迫る影どもめがけ、腕を広げた。力の塊は渦の壁となり、渦の中心は一直線に影の間を突き抜くように駆けた。
 影は蹴散らされるが、後から後から際限なく湧き上がる。
 その上を緯仰が飛び上がる。
 空中で反転したまま男に手を向ける。掌から、指先から、全身から燻り始めた炎のように紅いオーラが迸る。
 地に足を着き様、エネルギーの球体は緯仰の手を離れた。どんと圧力が掛かるような音ともに、光の矢は男をめがける。
 咄嗟のことながら静かな動作で片手を振り上げ、一気に吹き出した臭気の壁がぐるりと男を囲う。
 防いだかと思ったが、地より這い出す影をも即座に塵としながら、徐々にそれは内側へと入り込んでくる。
 両方向からの攻撃はまだ耐えうる程度であったが、緯仰の方はまだ力を出し切ってはいないと男は感じた。
「濱さん。合図したら避けてくれるかな」
 緯仰の体を迸るオーラの量が変わった。そして、その力が放つ気配も変じた。


 
 

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