『式師戦記 真夜伝』

 
 第四十二話 余裕、皆無
  


 墨を一点の隙もなく落としたような暗闇が森に口を開けている。
 影に引き込まれた咲を助けに真夜は潜ったままだった。
 あれから闇の穴にはとんと表面的な動きが見られず、玲祈は宙に浮いた奇妙な体勢であぐらをかき顔を不機嫌にしていた。
 正体不明の透明な何かが自分を守り覆っているのは分かった。至って害はないと感じとったので、今はもう気にはならなかった。
 問題は変化を生じない現状にある。
「真夜はあのまま、オッサンは戻って来ず。俺は動けないとくればやってらんねーよー。真夜のとこ離れてあの変人野郎どこ行きやがったんだ!」
 玲祈は疼く体のおきどころに苦悩していた。術に集中するためにおちおち苛ついてもいられない
 玲祈は鎮破に言われたことを思い出していた。
──気付いていない。
 一体何についてなのか、まるで見当がつかないのだ。
 結局鎮破から、まともな修行を受けられずにここまで来てしまった。
 背後の方向から木の枝沿いに葉音が近付いて来た。ちゃんとした人の動きと音で分かる。しかもそれは式家特有の所作だ。
「よっ。無事みたいだな、玲祈」
 一式を補佐する役目を負う六奉、その鶴史は玲祈の頭上の比較的太い枝へと降り立った。
「鶴史さん! どうして!?」
「真夜のお守り……っつーのか?」
「今日は奉家まで出て来ていいんすか。鎮破や棗さんたち、他の祓い家に出張ってるだろし」
「俺もよく分からないんだけどな、実は濱さんと一緒に来たんだよ。今日一緒だったんだろ? 三式の分家の。あっちで初めて会ったんだけど、今ごろたぶん影出て来て戦ってんじゃねぇかな、濱さんも」
「はあ!?」 「今日もさ、丸崎さんからの連絡で呼ばれたんだわ俺ら。正確には濱さんがなんだが、どうもなあ。年長組の態度が引っ掛かってさ」
 でもやっぱ蚊帳の外だな、と鶴史はお手上げと両手を広げた。
 ふと気付いて鶴史は来た方向を振り向く。玲祈も同じく森の奥を見た。
 強い気配が忍び寄る。風がない中で葉や枝がかさかさと小さく震えている。
 強い力は足下の闇の穴からも感じられ、その表面が沸き立つ。
 玲祈が身構えた。
「来るか!」
「いや……違うな」
 鶴史は冷静に状況を見守っていた。
「この中なんだろ、真夜や咲は」
「夜目鍛えられてる俺らには、あれはまるっきり黒い空間で嫌な感じだけど。……もしかして、真夜たちに何かあったのか?」
 玲祈はもう一度、地面を覆う闇の絨毯を見渡した。
 表面に水面のような波紋が小刻みに立ち、次第に波のように荒れ出した。
 鶴史も玲祈も、両方向からピリピリと伝わる力の放出に、過剰に意識していた。



 渦巻く空気は重力のごとく、蠢く気配は何千と言うがのごとく、全神経を震わすのに濱甲にとっては十分な体感だった。
 自分とはむしろ異な、この目の前の敵と類を同じくするものではないかと気付く余裕もなく、冷や汗を滴らせながら影に力を向けていた。
 迸り充ち満ちようと緯仰を包む力が炎立つ。
「コの気配ハ……」
「今だよ、濱さん」
 濱甲は合図と同時に攻撃を止め飛び退いたが、それを追わずに影は濱甲に向けていた攻撃の手を緯仰に向ける。どうやら片手では防ぎ切れなくなったらしい。
 緯仰は押し切る気でいたのだが、男は持ち堪えた。
「面白イ。我ラに向かってソの力を使ウか」
「挨拶にしては、仕込みのやり過ぎだよ。僕に怒る理由を与えちゃ」
 緯仰の眼がくっと細まる。
(真夜ちゃん。戻っておいで……)
 手も緩めずに緯仰は声に出さない声を飛ばす。
「大丈夫だよ。僕がついてるから」
 容赦のない圧倒感をみせて、緯仰は笑う。
 真夜への想いからか、はたまた目の前の敵の登場によるものなのか、緯仰の心はいつになく昂揚していた。普段抑えに抑えている力があふれ出す。
 止める気も起きなかったが、あまり見せすぎるのももったいないという思考に至った。
 それよりも先にやることがある。
「是謳」
 緯仰は自分の半身を呼んだ。



 暗闇の中に浮かぶ二人の少女たち。闇の間に閉じ込められた真夜と咲の間に、落雫《らくな》のように光が一粒現れる。
 真夜にはすぐにそれが何者か感じとった。
「是謳!」
「真夜様。ご機嫌麗しく」
(真夜ちゃん)
 真夜はまた聞こえて来る声に耳を傾ける。
(戻っておいで)
「緯仰おにいさん! でも戻り方が……」
(大丈夫。真夜ちゃんは一度影を内部崩壊させたことがあるよね。あれを今度は自分でやってごらん)
「そんな……私やり方なんて分かんない」
(その闇の穴も影と一緒だよ。真夜ちゃんの力を、いつも通り思いっきりぶつけてやればいいんだ。僕が付いてる)
「付いてるって……えっ!」
 是謳の伸ばした手のひらから、真夜とは違う力が流れ込む。
(僕が手助けするから、それに応えればいい)
 あの日の夕暮時、展望台で手を握られた時とは桁の違う膨大な力が注ぎこまれる。それに、相反する気配が隠れもせず露わになっていた。
 気にしてる余裕はなかった。流れ込む力に触発されて、真夜のボルテージが上がる。
(腕をいっぱいに広げるように。力を、開放するんだ)
 僕が一緒だよ。
 緯仰は焦点を影百護の男に戻す。
「もう疲れたんじゃないのかい?」
 男は答えない。眉一つ上げずに緯仰の攻撃を未だ防いでいた。 「そろそろ、返してもらうよ」
 緯仰は振りかぶるように一撃に力を込めた。男は堪えていたが防壁にさえ綻びが出来始める。
 そしてその一撃に遅れ遠隔に張った穴からも、押し出ようとする力を男は感知したが、遅い。引き際だった。
 一切の抵抗が止み、瞬く間の防壁の消滅と同時に緯仰の前から男も姿を消していた。
 あるのは夜の森の静けさだけだった。
 緯仰が追うことはなかった。上目遣いに濱甲の顔を窺っている。
「後悔するかも……って言ったよね」
「なんなんだぁ、あれは」
 音の立つほど濱甲は頭を掻いた。
「教えない。宣戦布告を出されたな。早く戻らないと」
 本心がどこにあるのか、付き合いが長いと思う濱甲も毎度はかりかねていた。



 まざまざと強い力を感じさせられながら、黙って見守ることしかできない玲祈の足下が吹き上がる。
 飛沫が上がったかと思うや散りぢりと吹き飛ばされるように、黒の絨毯は玲祈や鶴史の前から消え去った。
 跡には静けさを取り戻し寒々しげに茂る草と、林立する木立ち。その森の谷間にぽつりと二つの体が横たわっていた。
「真夜! 咲!」
 いつの間にか周囲を守っていた存在は消え、見つけた途端玲祈の足はすでに駆け出していた。鶴史もすかさず枝から降りて駆け寄る。
「大丈夫か!?」
 玲祈は真夜の体を抱き起こした。
「あ……れ、いき? 咲は?」
「こっちだ。意識を失っているが無事なようだぞ」
 思いがけない声に真夜はぐったりしていた顔を上げたが、隣りで横たわる咲の手が自分の右手に握られているのを見て安堵した。
「真夜ちゃん」
 走り寄る足音に気付いて真夜は再び視線を動かした。闇の中で真夜を呼んだ声の持ち主、緯仰がひざまずいて顔を覗きこんだ。
「緯仰おにいさ……出来たよ。咲を助けて、出て来れた……」
「怪我は?」
「少し、疲れちゃった……」
 頬に触れられながらふわり笑っている真夜に忘れられている自分が、玲祈はひどく悲しかった。
 咲の体は、緯仰とともに駆け付けた濱甲が抱き上げる。緯仰もさも当然のように、あっさりと玲祈の手から真夜を抱き取った
 苛立つより空しさから、玲祈は黙ってそれを許していた。



 どのくらいか分からないほど、鎮破は川間の本寺で巨体の獣型と睨み合っていた。
 その間にも上空はパリパリと力の摩擦が絶え間なく起きていた。
 にじりよじりといった脚が次の瞬間石畳を蹴る。
 鎮破はさばやく鞘から刀身を引き抜き、そのまま獣に斬りつけようとした。その先端すら届かない紙一重のうちに、獣の影は形を崩し風に巻き上げれた灰のようになって鎮破を巻き込みとおり過ぎ去った。
 去り際鎮破の耳元で影は囁いていった。
 挨拶ハ済んダ──と。
 とっさに防御のために出した腕を避け、鎮破は辺りを振り返り空を仰いだ。
 影の気配は消えていた。
「……なんか肩透かし食らったようだぜ。おじ貴よぉ」
 戌圭は、まだ合掌したまま経をあげていた。
「鎮破さん! 辰朗!」
 本堂から川間戌圭の末子、暁哉が躍り出て来た。
「影は……」
「消えた。いまはこの一体に気配はない」
 数珠を鳴らして戌圭が呼吸を整え終える。
「共鳴は止んだな」
「はい。それで外でなにか、と慌てて……」
「ドンパチやらずに消えちまったんだよ」
 辰暁は悔しそうに言った。
「三枝や佐伯でも同時に引いただろうな」
「玲祈様たちが心配です」
「あちらは丸崎のが付いている。心配など無用だろう」
 呆れるように溜め息をついて、鎮破は月破刀を鞘に納めた。
「御刀《おかたな》が鳴るのは初めて聞きました」
「儂は何度か聞いたことがあるが、こんなに鳴ったのは初めてだ」
「住持様たちは鳴り止んだ御刀の様子を見に本堂の奥に向かわれました。統司さんも一緒に。それで私は外の方をと出て来たんです」
 暁哉は鎮破の目を探っていた。
 空気を壊すように戌圭は夜空を仰いで呟く。
「……周囲の気が鎮まって来たな。暁哉、もうお前は良いぞ。什海殿には儂が言っておく」
 それじゃあと、辰朗は鍵を取り出して門へ足を向けた。
「とんぼ帰りだがな。おじ貴、くたばんなよ!」
「罰当たり者がっ」
 辰朗は末っ子の暁哉より一つも年下だったが、戌圭とは顔を合わせればいつもこの調子だった。
「鎮破くん、ご足労願って返ってすまなかった」
「いいえ……」
 辰朗・暁哉を追って、鎮破は山門を潜った。


 
 

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