『式師戦記 真夜伝』

 
 第四十四話 黒い咆哮
  


 三家への影襲来から、また再び日はまた西に下りる。
 夕暮の紫が染め上げる廊下にも、鎮破のきっぱりとした言葉が届いていた。
「大きな獣でした。姿は大型の狼のような。単身あの川間宗蓮寺の結界の中まで入って来ましたし、ちらとですが持っている気配の濃さは感じました。……最後は挨拶だ、と消えましたが」
 鎮破も夜を徹しての体勢に、事後処理、そして緯仰の来訪と休まる暇がない。
 そもそも今度の襲撃で、一つの論争に決着がつこうとしていた。詰めはまだなものの、事は大きく動いた。
 ゆるゆるとして歯切れの悪い攻勢も半ば呆れていたが、こうも正面から来た上で虚仮にされるのは鎮破にとって不愉快であった。
 そして目の前の人間も然り。
「大きな狼……話したのかい?」
「挨拶程度なら」
「……」
 緯仰の中でも決した事があった。
「鎮破くん」
 まっすぐにその目は鎮破を映していた。
「一つお願いがある」 ソファにもたせ掛け傾けていた姿勢を緯仰は正す。
 変わらぬ余裕の笑みで、緯仰は憮然とする鎮破に対していた。
「玲祈くんのこと、僕からも頼んでいいかな」
「あなたがすれば話しが早いのではないですか?」
 鎮破は猶予なく切り返す。内心予測の範疇のことだった。
 しかし緯仰の次の言葉は、鎮破の心にまた波紋を生み出すこととなる。
「僕は真夜ちゃんで手一杯。ああ大丈夫。君達の大事な妹は大切にするから」
 むろん君達というのが誰を指すのか分かっていた。ちぐはぐなようでいて、言ってくれると、笑ってしまいたい思いが湧く。思いが湧きながら鎮破の眼はひらめいた。
 知ってか知らずか、鎮破の背後に立て掛けてある一振りの刀に緯仰は目を向ける。
「それ……月破刀だね。少し見せてもらってもいいかな」
 触れるなという威嚇の視線を笑顔でいなし、式家伝家の宝刀を掲げ持った。
 黒映えに重厚な装飾の鞘から白刃の刀身が顕れ、光を反射させる。
 検分するかのように角度を違えては己を映す鋼に目を滑らせていった。
「……ありがとう。それじゃあ僕はこれで失礼するよ」
 緯仰は元の場所へと月破刀を戻して立ち上がった。そのまま部屋を出るふうだったが、その足が止まる。
「それは何代目の刀だったかな」
「それはどういう──」
 聞き返そうとした鎮破はしかし、その表情に口を閉じた。
 緯仰はいつも通り笑っているようで、ひどく遠い目をしていた。
 鎮破の眉根が寄る。いつも余裕を持って自分達を見ている男に、今は映らなかった。
 廊下の向こうから、ばたばたと騒がしく足音が部屋に近付いてきて、勢いよく襖が開いた。
「鎮破あ! ──あ?」
 目的外の人物に玲祈は瞬いた。
「おや玲祈くん」
「おや、じゃねえよ! なんであんたがここにいんだよ」
「鎮破くんに昨日のことで聞きたいことがあったんだ。僕はもう帰るから、用があるならゆっくりどうぞ」
 再び部屋を出ようと足を向けた緯仰は、そうそうと一度振り返る。
「気をつけてね」
 二人はぴしりと襖が閉められるまで黙って見送っていた。
「からかっていられるのも今のうち……か。そろそろ」
 緯仰は一人また自嘲気味に呟く。
 その声は冷え始めた夕暮に溶け、鴾色から暮色へと変わろうとする空に細める三日月が浮かんでいた。
 どのくらいをそうしていただろうか。玲祈も鎮破も、珍客が跡形なく去るまでの時間一つとして動きをみせなかった。
 頃合を見計らって玲祈が口を開いた。
「何話してたんだよ」
「言った通りだ。それより仕事だ、お前も付いて来い」



 帳はそのまま迫る影の群を象徴するかのように、日ごとにその時刻を早め色深く降りる。
 月の明るさが増せば空気はひやりと肌をなぜた。すでに秋の空気だ。
 崖上に建つ住宅の、幅のある塀の上を行ったり来たりとする玲祈の歩みは曲芸めいていた。
「よっ、と。ほっ」
 その下で塀の壁に寄り掛かっていた鎮破は鋭く目を開いた。
「来たぞ」
「……群がりやがって」
 郊外の丘陵地帯。幾重もの層のように町が丘の周りを取り巻いている。
 坂の下から何かが這うように上ってくるのが見て取れた。
「オレ一番っ!」
 威勢のいい声を上げ、塀の端から拓けた空に身を踊らせる。風を切って着地した未開発の野原に、黒くうねる筋が一つふたつと入って来た。
 影型よりも形はなく、煙より脆そうだが二転三転動きを変え、その筋は玲祈に向かっている。その向こうからさらなる数のうねる筋が現れる。
「肝試しなら他でやんなっ。じゃなきゃオレが灰にしちまうぜ」
 玲祈を取り囲むようにそれらは右往左往しながら近付いて来る。
 空地脇の柵を軽々飛び越え、鎮破も直下の下草茂る地面に降り立つ。
 呼応するように玲祈と囲んでいた半数が鎮破へと向かう。
「うざい」
「……お前、今ウザいって言った?」
 思わず玲祈は顔の向きを変えた。
「鎮破にウザい言われちゃ──って」
「玲祈……黙って仕事をしろ」
 鞘から抜かれた刃跳ね返った街路灯の明かりが、鎮破の据えた眼を浮かび上がらせる。誰も寄せつけぬ孤高の強い意志をもつ眼は、今宵は違った鋭利さを放っている。
 浮遊霊のように囲む未熟な影たちが弾かれるように一回り距離を引いた。
 青白く仄明かりをおびた円が鎮破の周りに静かに描かれ、降って湧いたような風が髪を逆さになびかせる。
「鎮破……」
 肌から内側からと予感が走る。
「月をして破らんとす力、ここに見せん!」
 柄を握った手首を返し、勢いのまま鎮破の手が月破刀を地に突き刺した。
 巻きおこる疾風が駆けると散り散りとあまたの閃光が野原を満たし、それぞれに儚く天に溶けるがなおも鎮破の体は力を発していた。
 玲祈も言葉を忘れて立っている。
 あちら側には黒い群影が控えていた。
 柄を握り締め、おもむろに右手を眼前に挙げる。息を深く吐くのと同時に熱気のごとく力が光となって立ち上ぼる。
 だがすぐに片付けるわけではなかった。待つように影どもを引きつける。
 有り得ない速さで蔦草のように手を伸ばして来たときを見計らい、鎮破の眼が見開かれた。
 影が体ごと泡になり弾ける。
「オレの出番……ねえじゃん……」
 玲祈の締まるような喉から絞り出された一言は届かない。
 刀身が電気が使っているように鳴っている。
「昨夜はよくも虚仮にしてくれたな」
 鎮破は広い草原に朗々と声を張り上げた。
 相手はと視線を変えた玲祈は違う気配に毛が逆立つのを感じた。
 広い空間の真っ直中にその源が姿を現わした。
「挨拶ダと、言ッたガナ」
 牙を見せる口の端からは異臭を思わせるような息が白くたなびいた。
 自然の風が出て来ていた。
 頬にひやりとして、玲祈感覚が戻ったと思った。
「でけぇ……こいつか!?」
 鎮破は睨み据えるばかりだった。しかし薄く開いた間から、噛み締めた歯が見え隠れしている。
 遠くの摩天楼の明かりに縁取られた漆黒の毛並みが揺れていた。大きさは背から地面までは馬にも似た高さのネコ目イヌ科に属した形を取っていた。
 眼は紅く、闇夜に二つと炎が燈っているようだ。
「名前を聞こうか、百護の影よ」
「キマ」
 紅く光る眼と鎮破の氷の眼が交差する。
「面白イ獲物よ。ワが牙にかかることはケシテ式の恥にハなるまい」
「血にかかわらず恥だと言っておこう。力をもって問い質してくれる。聞きたいことは山ほどあるからな」
 重く地より抜き取られた刃を、鎮破は影の鼻先目掛けて突き出す。
 弓なりに獣は背を反らせ、月に向かってその怒声のような咆哮をあげた。



「咲、行って来るよ」 眠る親友を、真夜は注意深く覗き込む。
 未だ目覚めの兆しはなく、真夜の肩も落ちた。
 音が立つほど強くその両肩に手が乗る。
「心配ないわ、寝てるだけだもの」
 午後も夕方近く起き出した咲の姉は、夕焼けの茜に染まっていた。
「真夜さま、まだ休んでて下さい!」
「やーよ。もう体は普通に動くしぴんぴんだもん。それより佐伯、夕美さんとこ行って、名前でも考えててよね私が帰るまでに。ああでも、名前決まってもまだ教えないで。咲と一緒に聞くんだから」
「はあ……」
「はあじゃないの! 佐伯はもうパパなのよ、パ・パ」
「しかし丸崎さんにはゆっくり休むようにと……」
「おちおち寝てられますか! 大丈夫。緯仰おにいさんは、困った笑顔はしても怒らないもの。ちゃんとメール入れとくし、何より暴れたんないったら」
 ブイサインを真夜は高らかと突き付ける。



 オフィスに鳴り響く電話を、緯仰は積み上がっていた書類をかき分け受話器を取った。
「棗ちゃんが深追いをしてる?」
「ええ」
 緯仰にとって、代わりに情報収集を任せていた暮からの内容は意外だった。
 従妹とはお互い性格を知り尽くしている。容姿に似合わず行動は時として大胆だが、生い立ちからか幼さの残る頃から周到な慎重さだけは欠いたことがなかった。
 胸ポケットから振動が伝った。
「鎮破君は言ったとおり四式と動いてる。美ヶ丘《はるがおか》の方ね。二式は溜まってた白を預けたけど、裟摩子ちゃんの浄化の腕は格別になりつつあるわね」
 正直自分が表で自由に動けるための背後での、暮の微に入り細に渡るフォローには感服していた。
「あとね、……一式も出て来たみたい」
 良かったの?、と問われた緯仰のもう一つの手が、携帯電話を開いている。
『やっぱりじっとしていられないので、ちょっと行って来ます。体の方はもう動きたくてしょうがないので大丈夫です』
 ハートの動く絵文字で締めくくられたメールに、緯仰はただ笑いを零すしかなかった。
 この七年間見て来た少女はそういう子だったと、窓の外の摩天楼にパノラマにその身を映していた。


 
 

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