『式師戦記 真夜伝』

 
 第四十五話 空回る風
  


 仰々しい取締役の椅子に、緯仰は書類に目を通すのを止めて深く背中を預けていた。
 下界は煌々としたネオンの洪水にかすみ、夜天光のように窓辺の底辺に明かりを映らせていた。
 大きい獣型の影が四式や五式に付く祓い師、川間一族の本寺を襲った。
 古い古い記憶が、まるで自分のことのように瞼の裏に落ちる。
 よほどあの二人を気に入っていた。二人もあいつを殺るのは己だと、眼に炎を宿していたものだった。
 デスクライト越しの薄暗い天井で、外界から溢れ入る光が踊る。
 ガラス越しに覗き込めば覆われそうになる賑やかな不夜城。その中に数多現れた小さな黒点を、どうしても緯仰は見つけてしまう。
 短い音を上げて、オフィスの重苦しいドアが開いた。
「やあ、来てくれたか」
 無言でその人物は取締役席の机に歩み寄り、その手前で立ち止まる。
「ごめん、わざわざここまで呼び付けて。なんせ暮も捕まえられないって言ってたから。鶴史くんと同じく受験生だからな、凪火ちゃんも」
 紺のブレザーに身を包む七奉凪火は、薄暗い中に表情を溶かして立っていた。
「……六奉から再三連絡がきました」
「ああ、それで?」
「最初に言われたとおりに──」
「ありがとう。それで、君に頼みがある」
 昼間の穏やかな印象は、緯仰の双眸から消え失せていた。
「近いうちに一度大掃除に出る。たぶん棗ちゃんや鎮破くんは知らない振りをするだろうけど、他はそうはいかないだろう。特に……ね。フォローは暮に頼んである。凪火ちゃんはさりげなく顔を出して、表で手伝って欲しい」
「……」
「忙しいのは分かってる。けど妙な勘が働く子もいるし、まだそこまでは言いたくないから」
 騒ぐ面々の顔が目に浮かぶ。愛しい子はどう思うだろう。
 緯仰はそれを考えただけで、誰かのように眉を顰めた。
「今、は良いんですか?」
「うん。今夜は暮を手伝ってやってくれ。下の連中の片付けも任せる」
 今日明日くらいは負担を掛けてやりたくない。それでなくとも今はたぶん、心の方がまいってる。
 酷なことだと分かっていて、止められない自分が恨めしい。



「懐カシい刀を持っテいるナ」
 巨大な狼と見紛う影は、その寒空の闇夜に光らせた双紅を月破刀へと向けていた。
「……懐かしい?」
「ダガそれは我レが一番古く知ル刀ではナい」
「これを月破の刀のオリジナルではないと、言うか」
 鎮破は鍔が鳴るほどに柄を握り直す。
「お前は何者だ」
「愚な問いヲ。おマエども式のモノが呼ぶトおり、我レは百護がヒトリ」
 醜悪に口の端を影は上げる。真冬でもないのに獣の息が白く燻る。
 鎮破は終始睨みすえていたのだが、視線の糸を自ら切り、手にしていた月破刀を鞘に納めた。
「玲祈、こちらに来い」
「お、おう……」
 警戒を向けつつ、玲祈の声はうわずっていた。
 鎮破がみせた力の強い開放、そして受けたことのない影の威圧感に圧倒されていた。
 その固まっていた頭に鎮破の言葉が染み込むような入って来る。
「いいか玲祈。お前は攻撃ばかりと逸るがな、防ぎ手もまた最大の攻撃になるんだ。そのくらいは分かっているはずだが」
「……」
 確かに田舎の山に行けばいつもそんなことを言われると、玲祈には心当たりがあった。
 いや、口でなくともそれは叩き付けられて来た事実であると、この時玲祈は初めて噛み締めた。
「あいつの相手、お前に譲るからやってみろ」
「オ前が誘ウたノデはなイか」
「ああ、こうしてな。これほどの力をちらつかせれば来るだろうとな。誘いはしたが相手はこっちだ」
 鎮破は悪いなと下がり静観者を決め込む。
 その態度が触れたのか、玲祈の拳に力が増した。
「やってやろうじゃねぇか」
 玲祈の喉が鳴る。
 わざと視界の外にしていた玲祈を値踏みするようになぶり見てから影は鼻で笑った。
「尻ノ青い小童ガ」
「ごちゃごちゃ言ってっと痛い目みるぜ、でけぇだけのイヌがっ」
 起爆剤となり、助走も構えもなく玲祈は駆け出した。
 人にしては凄まじい脚力で迫る玲祈を前に、獣は吹き飛ばすほどの強さで哮る。
 むしゃくしゃする気持ちの憂さ晴らしにしてやると、スピードに乗った玲祈は影の後ろに周り、その遠心力で影の体を貫くよう足を飛ばす。
 力の差、桁の差の歴然とする気配を感じる度に、あの頬を寄せてほほ笑む姿が頭にちらつき、嫉妬を掻き立て激情を呼び起こす。
「逃げんなっ!」
 飛び退いた影の跡に足を着いたと思うと、すぐさま取って返すように全身を発条に鋭い角度を描いて飛ぶ。
 地面にはほんの一瞬足を着けるだけで、玲祈は縦横無尽に影の周り飛び翻弄する。
「なカナか小癪ナ」
 首を大きく振りかぶりるキマの喉が光る。唸りを上げた口から黒炎が玲祈を狙っていた。
「来いよっ」
 玲祈腰を落としたの手はすでに印を結んでいた。
「亀甲!」
 ふわり姿現わした二つの小さな分身とともに、影との間を亀甲紋に力の膜が張られる。
 亀甲の盾は攻撃を正面から受け止めた。
 しかし掛かる負担が違う。
「っぐ……」
 びりびりと押される感覚に歯列の隙間から息が零れる。
 負けられないのにいつもいつもだ。
 握る手に力が籠る。
 真っ直ぐに駆けているはずが肝心なところで揺らぐ──いつもいつも。
 足が土の地面を滑りゆるやかに後退する。
「くっそ……ぉ」
 切羽詰まった視界の端が蠢いた。
 現れ出した他の影たちに、そして再び刀を抜いた鎮破に気付く。
「お前はそっちに集中していろ。すぐ片付く」
 鍔の音がひどく重々しく耳に入る。
 心の中の玲祈は呟いた。
「そうだ……受け止めてみたとこで、オレの性には合ってねんだよ!」
 玲祈は亀甲を解きその場を飛び退く。
 意思の伝わった小将達も距離を取る。
 四式が誇る身体能力。それはしなやかさの柔と脚力の速を基本とする。
 だがその足をいともたやすく影は追いつかれる。
 牙をむき出しに双紅は玲祈を捉えていた。
 とっさに上半身を捻り避けようとしたが間に合わない。
「く……そっ」
 幸い掠っただけだが、それでも玲祈の負った痛みは生身の猛獣と大差がないだろう。
 さらに耳障りな舌なめずりは玲祈の顔をしかめさせた。
「玲祈様」
「……こんなもんなんでもねぇよ」
 来るなと顎をしゃくるが、その吐息は荒かった。
 だらりとした左肩を押えていながら、玲祈は構えた。
「こんななもんなんか、ちっとも痛くねんだよ!」
 どちらが吠えるが先か、玲祈の足は土を蹴っていた。
 今度はもう片方と口を開けるが目の前まで来て玲祈の姿が視界から消えた。
「遅ぇ」
 影の足下に屈むようにしていた背中から体を翻し、逆に距離を置くように足を着く。
 挑発するように笑って見せるが影は余裕でそんな玲祈を見下していた。
「上等じゃねえか」
 駆け出すと瞬時に影の後ろを取る。
「八ツ森・洲播!」
 影が見れば囲むように点々と印が幾つか浮かんでいた。
「囚!」
 いつになく怒気をはらんで玲祈が叫ぶ。
 力の膜が影を覆う。
 見えない力の攻防を、汗ばみ小刻みに震える結んだ手が示していた。
 影はさして動じていないふうに動かない。その紅く底光らせた目が三日月を作る。
 囚で捉えたはずの影の向こうの地面が、沸き上がる気泡を放っていた。
 囚の中の影が地に融ける。
「ソレで捕エたツモリか」
 くぐもってはいたが確かにそれは嘲笑だった。影の姿がまっさらな野原の上にあった。
 玲祈は術を解き、改めて拳を握る。
 面白そうに影は玲祈を見ていたが、ふいに体を浮き上がらせた。
 鎮破の他の影を葬り尽くした刀身が横殴りに空をなぎ払う。
「慌てズトも両方相手ヲしてクレるハ」
 高笑いの声を残して獣は闇に消えていた。



 下弦の月のように闇夜に反面を隠して、真夜は腕を組んで待ちわびていた。
「骨折り損のくたびれもうけ……にはならないみたいね」
 睨み付ける先にはゆらゆらと迫る仄明かりの群れがあった。
 関係のないように浮遊していたがふいに真夜に一直線と向かって来た。
 一発かませばと思いきや狙い定めるまもなく迫り来る。
 建物の屋上から続く階段をひらりと飛び下りた真夜は、降り仰いでギョッとする。
 雪玉のようなそれが空気に音を立てながら、止めどなく追って落ちて来る。
「うわっ! ちょっと待ってよねー!」
 次々と落とされ、それを避けつつ甲高い叫びを上げる。
「お前はさあ、少し大人しくしてろよな」
 長い溜め息が頭上から降り注ぐ。
 手近な距離に降り立ったシルエットは見慣れたものだった。
「鶴史!」
「先輩だろう、先・輩」
 注意する口調だが、顔は悪戯っぽく笑っていた。
「学校抜けたらそんなのあるわけないでしょ」
 並走して影になりかけの群れを引き離したところで、二人は左右の路地に身を隠す。
 頃合を見計らい、ほぼ同時に手を伸ばした。
「散れぃ!」
 差し掛かった群れが雷にでも打たれたように跡形も飛び散り、煙のように掻き消えた。
「なによあれぇ」
 一息ついて真夜は懲り懲りといった様子で消えた跡を見渡した。
「体は大丈夫なのか」
「……昨日はありがと様デシタ」
「おかしい日本語で言われても嬉しくないぜ?」
「昨日はどうして」
「丸崎さんに呼ばれたんだ。俺と濱さん」
「気がつかなかったけど、濱さんもいたんだ」
「三枝の森の奥で落ち合ったんだ。気配が濃くなったと思えば二人とも先にお前らのとこ行けって言うから、玲祈のとこまで来たら辺りの影はあっと言う間に消し飛んだ。あれ、お前がやったんだろ。丸崎さんが言ってた」
 真夜は俯きかけの頭を傾げる。
「よく覚えてない。結構必死だったからさ」
 鶴史は大仰に溜め息を漏らして歩み始めた。
「ったく、何度言えば奉家に一報入れるくらいのことを覚えるんだ」
「はあいはい、分かりました元部……長……」
 鶴史が威勢のなくなった声に振り返れば、真夜はだいぶ離れた後ろで立ちすくんでいた。
「おい? どうしたんだよ!」
「な……だか……ねむ……ぃ」
 どさりと重々しく、真夜は地面へと身を沈み込ませた。


 
 

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